近世の外交を整理する|勢力均衡という発明

近世の外交を整理する|勢力均衡という発明
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近世の外交は条約の暗記に見えます。しかし通っているのは一本の軸で、どこか一国が強くなりすぎたら、残りが手を結んで押し戻す——勢力均衡という発想です。上位の権威を失い、力の近い国が並んだヨーロッパで、この発想は常駐使節と多国間の会議という制度にまで育ちました。誰も中心にならない秩序が、どう組み立てられたのかを追います。

中心のない世界をどう運営するか — イタリア戦争と常駐使節

一言でいうと近世の外交とは、対等とされる複数の国家が、常駐の使節と条約によって関係を調整する仕組み。その中核にあるのが勢力均衡——一国が突出しそうになると、他の国が同盟を組んで押し戻すという運用の考え方である。
近代の言葉を過去へ持ち込まない帝国主義は、19世紀後半の現象を指す歴史用語です。工業化した国家が原料と市場と投資先を求め、世界をほぼ残らず分割したあの局面を指します。したがって「古代の帝国主義」「中世の帝国主義」という言い方は、歴史用語としては成り立ちません。ローマやモンゴルの拡大はその時代に相当する現象として、征服と支配の仕組みそのもので説明してください。近世のスペインやフランスの海外進出は、帝国主義ではなく重商主義のもとでの拠点と交易路の確保として説明します。ヨーロッパの内部での領域の拡大は、むしろ王家の相続と婚姻が大きな比重を占めました近代の概念を無自覚に過去へ当てはめないこと自体が、答案の評価を分ける論点になります。
  1. 15世紀のイタリアはヴェネツィア・ミラノ・フィレンツェ・教皇領・ナポリ王国などに分かれ、突出した勝者が出ない状態が続いた。
  2. どこか一つが伸びると残りが手を結んで抑える、という運用が意識的に行われていたとされる。
  3. そのために各国は相手の宮廷に使節を常に置き、情勢を本国へ報告させた。これが常駐使節の始まりとされる。
  4. 1494年、フランス王シャルル8世のイタリア侵入によってイタリア戦争が始まった。
  5. 半島内の均衡は、半島の外にいる大国を引き込んだことで一挙に崩れた。
  6. この戦乱のさなかにフィレンツェの使節として各国の宮廷を回ったのがマキァヴェリであり、のちに『君主論』力の現実から政治を論じた
  7. 戦争はやがてヴァロワ家とハプスブルク家の争いに姿を変え、カトー=カンブレジ条約で終わった。
  8. イタリアは自立を失ったが、常駐使節という技術だけは、勝った側の大国が持ち帰って標準にした
中世ヨーロッパ 近世ヨーロッパ
上位の権威 教皇と皇帝 存在しない
使節のあり方 用件ごとに送り、済めば帰る 相手国に常駐し報告を送り続ける
同盟の根拠 信仰と血縁 国家理性(国家の利害)
秩序を保つ手段 破門など宗教的な制裁 同盟の組み替えと戦争
戦争の終わらせ方 当事者どうしの個別の和解 多国間の会議と条約
「常駐させる」ことの意味を書く相手の都に使節を置き続けるということは、相手を「これからも消えずに存在する対等な国家」と認めることです。だから常駐使節の一般化は、主権国家が並び立つ体制の実務面での土台になりました。「近世の外交の新しさは、条約の中身よりも、関係を常時つないでおく方式にある」——この一文を書ける受験生はほとんどいません。中国の朝貢使節が用件を終えれば帰るものであったこととの差は、あとの節で効いてきます。

教皇が抗議しても止まらなかった — 会議で戦争を終わらせる方式

  1. 三十年戦争の講和交渉は、ミュンスターとオスナブリュックという2つの都市で並行して進められた。
  2. カトリック側と新教側が同じ席に着くことを避けるための配慮であったとされる。
  3. 皇帝・フランス・スウェーデン・ドイツ諸領邦など多数が加わり、交渉は数年に及んだ。
  4. 席次や称号の序列をめぐる争いが長引いたとされる。誰が上かを決められないこと自体が、新しい原理の現れであった。
  5. できあがったのは、勝敗の確認ではなくヨーロッパ全体にかかわる取り決めであった。
  6. 教皇インノケンティウス10世はこれを認めない意思を示したとされるが、各国は交渉と実施を続けた。
  7. 宗教的権威の抗議が、国家間の合意を覆せなくなった——外交史の分岐点はここにある。
講和の方式 具体例 正しさを保証するもの
当事者どうしの個別の和解 中世の諸侯間の和平 当事者の力関係
教皇子午線を土台に二国で分ける トルデシリャス条約 教皇の権威
多国間の会議で講和する ウェストファリア条約 参加国の合意そのもの
会議を制度として常設化する 国際連盟・国際連合 加盟国の合意と機構
内容ではなく「方式」で書けると強いウェストファリアの条文の中身は多くの受験生が書けます。差がつくのは「多数の国が一堂に会し、まとめて講和する」という手続きが、ここで初めて大規模に用いられたという指摘です。ウィーン会議もパリ講和会議も、この方式の反復です。比較として、東アジアではこの種の国際会議が開かれませんでした中心に皇帝がいる秩序では、対等な参加者が集まって取り決めをする必要がそもそも生じない——ここまで書ければ、地域比較の論述として完成します。
1648年を万能の起点にしない答案では「主権国家体制の起点」と書いて差し支えありません。ただしこの条約1本で主権国家が完成したわけではないという見方も強く、実際には常備軍・徴税機構・常駐使節が数世紀かけて整った長い過程です。「起点」と書き、「完成」とは書かない——この語の選び方が、評価される答案の書き方です。
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均衡が条文になった日 — スペイン継承戦争とユトレヒト条約

  1. ルイ14世は相続の主張と戦争を重ねて領域を広げ、周辺国の警戒を集めていた。
  2. そこへスペインの王家が断絶し、ルイ14世の孫が王位を継ぐという事態が生じた。
  3. フランスとスペインが一つの家の手に握られることは、ヨーロッパの均衡の破壊を意味した。
  4. イギリス・オランダ・オーストリアなどが同盟を組み、スペイン継承戦争が起きた。
  5. 講和のユトレヒト条約は、フェリペ5世のスペイン王位は承認しつつ、フランス王位との合同は禁じると定めた。
  6. 人物を否定せず、結合だけを禁じる——均衡の考え方が、そのまま条文の形をとっている。
  7. この講和にかかわる文書には、力の釣り合いによって平和を確保するという趣旨が記されたとされる。
  8. 以後、勢力均衡はヨーロッパ外交の公然たる原則として語られるようになった。
ユトレヒト条約で得たもの・失ったもの
イギリス ジブラルタル・ミノルカ島、北米の領域、アシエント
オーストリア 南ネーデルラント・ミラノ・ナポリなど
フランス 孫の王位は確保、ただし両国の合同は不可
スペイン 王朝は存続、ヨーロッパの領土を大きく失う
「イギリスが取ったもの」に注目するイギリスが手にしたのは大陸の広い領土ではなく、海の要地と、奴隷を供給する権利(アシエント)でした。「大陸では均衡の番人にとどまり、利益は海と交易で取る」——18世紀のイギリス外交の型がここで完成します。「ユトレヒト条約は、勢力均衡の明文化であると同時に、イギリスの海洋優位の出発点でもある」と二層で書けると、経済史の設問にもそのまま接続できます。日本世界史塾では、条約を覚えるのではなく誰が何を取ったかの表を作らせています。
均衡は平和装置ではない勢力均衡は戦争をなくす仕組みではありません。むしろ均衡が崩れかけるたびに、それを戻すための戦争が起きます。18世紀に大きな戦争が絶えなかったのはそのためです。「均衡は平和を保証したのではなく、一国による統合を防いだ」——この限定を付けると、答案が正確になります。

均衡の限界 — 消された国と、通じなかった秩序

同盟は計算で組み替えられる — 外交革命

  1. オーストリアの宰相カウニッツは、最大の脅威はシュレジエンを奪ったプロイセンだと見定めた。
  2. そこでイタリア戦争以来の宿敵であったフランスと結ぶという構想を立て、マリア=テレジアの了解のもとで働きかけを続けた。
  3. 先に動いたのはイギリスとプロイセンで、1756年のはじめ、ドイツでの中立を約す協定を結んだ。
  4. 長くプロイセンと組んでいたフランスにとって、これは裏切りにあたる。ここでフランスはオーストリアと結ぶ決断をした(1756年、外交革命)。この語は同盟の組み合わせが逆転したことを指し、政治体制の変革を意味しない
  5. 包囲される形になったプロイセンがザクセンへ進み、七年戦争が始まった。
  6. 決着がついたのは北米とインドであり、ヨーロッパの均衡争いが、そのまま世界の勢力図を書き換えた

均衡の名で国が消える — ポーランド分割

  1. 18世紀後半、ロシアがポーランドへの影響力を強めていった。
  2. これを放置すればロシアだけが肥大する——プロイセンとオーストリアはそれを容認できなかった。
  3. そこでとられたのが、3国が釣り合う分だけ取り分を得るという処理であった。
  4. 3国の均衡は保たれ、その代償としてポーランドが地図から消えた
  5. 均衡の主体になれるのは大国だけであり、均衡は小国の存続を保証しない

均衡が通じない相手 — 清とマカートニー

  1. 清は朝貢を基本とし、周辺の国々を序列の中に位置づけていた。
  2. ヨーロッパとの貿易は広州1港に限られ、公行と呼ばれる特許商人が扱った。
  3. 1793年、イギリスはマカートニーを送り、開港地の拡大と都に使節を常駐させることなどを求めた。
  4. 清はこれを朝貢の枠内の来訪として扱い、要求を退けた。三跪九叩頭の礼をめぐる調整があったとされる。
  5. のちにアマーストも派遣されたが、儀礼をめぐって謁見に至らなかったとされる。
  6. ただし清は、ロシアとの間ではネルチンスク条約キャフタ条約という、境界を相互に確定する形式の条約を結んでいた。
  7. つまり清は条約という方式を知らなかったのではなく、相手によって使い分けていた
論点 ヨーロッパの外交 清を中心とする秩序
国どうしの関係 対等とされる 皇帝を頂点とする序列
使節 常駐して報告を送る 用件を終えれば帰る
合意の形式 条約 朝貢と冊封
一国の突出への対応 同盟を組んで押し戻す 中心が一つなので問題化しない
例外 均衡の外にある海外の獲得 ロシアとは条約を用いた
衝突を「使節の常駐」から書くマカートニーの派遣を「儀礼の問題で決裂した」だけで終わらせると浅い答案になります。「求められたのは常駐使節であり、それは相手を対等と認めることだった。清の秩序ではその一点が受け入れられなかった」——ここまで書けば、秩序の衝突として説明できます。さらにネルチンスク条約を持ち出し、「清は対等な条約を結べたが、それは陸の隣国に限られた」と補えば、単純な「保守的な清」という図式を退けられます。
均衡と正義を混同しないポーランド分割は、当時の外交の作法から見れば「正しい均衡の運用」でした。だからこそ問題です。「均衡は参加している大国どうしの安全を計算するもので、計算に入っていない国の権利は考慮されない」という限界を書き添えてください。ウィーン会議も同じ論理で領土を配分しており、そこで住民の意思は考慮されていません。

入試で狙われるポイント総覧

  • 常駐使節は15世紀のイタリア諸国に始まり、イタリア戦争を経てヨーロッパ全体へ広がったとされる
  • イタリア戦争の主軸はヴァロワ家とハプスブルク家、終結はカトー=カンブレジ条約
  • 三十年戦争の講和交渉はミュンスターとオスナブリュックで行われた多国間の会議
  • 教皇の抗議は各国の合意を覆せなかった=宗教的権威が国際秩序の決定から外れた
  • スペイン継承戦争の講和がユトレヒト条約フランスとスペインの王位の合同を禁止
  • イギリスはジブラルタル・ミノルカ島アシエントを獲得し、海洋優位を固めた
  • 外交革命=オーストリアとフランスの提携。設計したのは宰相カウニッツで、先にイギリスとプロイセンが接近している
  • ポーランド分割は、3国の取り分を釣り合わせることで均衡を保った処理
  • マカートニーは使節の常駐などを求めたが清は拒否。清はネルチンスク条約では対等な形式を用いた
共通テストでの出方「ユトレヒト条約でブルボン家はスペイン王位を失った」は誤り(王位は認められ、フランス王位との合同が禁じられた)。「マカートニーの派遣によって広州以外の港が開かれた」も誤り(拒否されており、開港はアヘン戦争後)。「近世のヨーロッパ諸国の海外進出は帝国主義である」も不正確(帝国主義は19世紀後半の概念)。条約の内容の入れ替えと、時代錯誤の概念が二大出題パターンです。
この記事の一問一答(確認テスト)
Q1. 常駐の使節を交換する慣行が始まったとされる地域と時期を答えよ。
A. 15世紀のイタリア諸国
Q2. イタリア戦争の終結を定めた条約は。
A. カトー=カンブレジ条約
Q3. 三十年戦争の講和交渉が行われた2つの都市を答えよ。
A. ミュンスターとオスナブリュック
Q4. スペイン継承戦争の講和条約と、そこで禁じられた事柄を答えよ。
A. ユトレヒト条約、フランス王位とスペイン王位の合同
Q5. ユトレヒト条約でイギリスがスペインから得た奴隷供給の権利を何というか。
A. アシエント
Q6. 清がロシアとの間で結んだ、境界を相互に確定する形式の条約を2つ答えよ。
A. ネルチンスク条約とキャフタ条約

よくある質問

勢力均衡とは、結局どういう考え方ですか?
一国が強くなりすぎたら、残りの国が同盟して押し戻すことで秩序を保つという運用の考え方です。上位の権威が存在しないヨーロッパでは、これ以外に一国による統合を防ぐ方法がありませんでした。
なぜヨーロッパでこの発想が制度にまでなったのですか?
教皇と皇帝という上位の権威を失い、力の近い国が並び立ったからです。似た論理そのものは中国の戦国時代の合従連衡などにも見られますが、そちらは統一によって終わりました。統一する中心が現れなかったヨーロッパでは、常駐使節と多国間の会議という持続する仕組みとして定着したところに違いがあります。
ポーランド分割は勢力均衡と関係があるのですか?
深く関係します。ロシアだけが伸びることを避けるため、3国が釣り合う取り分を得るという処理がとられ、その結果ポーランドが消滅しました。均衡は計算に入っていない国の存続を保証しません。
マカートニーの派遣は失敗だったのですか?
交渉としては要求が退けられました。ただし、常駐の使節を求めるヨーロッパ流の外交と、朝貢を前提とする清の秩序が正面から向き合った出来事であり、19世紀の衝突の前史として重要です。
この記事について

世界史専門オンライン塾「日本世界史塾」の編集部が、入試での問われ方を基準に作成しています。当塾では次の講師が指導にあたっています。

藤原 進之介日本世界史塾 代表/株式会社数強塾 代表数強塾グループ創業者。東進最年少講師、代々木ゼミナールの日本初となる情報Ⅰ講師を務め、著書は9冊。累計2,500名以上の指導と、40名を超えるプロ講師体制を築いた。
伊藤 敏代々木ゼミナール世界史講師/数強塾グループの映像授業を担当筑波大学・同大学院修士課程修了。ダイヤモンド・オンラインで「カリスマ世界史講師が教える誰も知らない本当の世界史」を連載。「キャラクターがいて、ストーリーがある。それが歴史」を掲げ、通説を多様な視点から捉え直す授業を行う。

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