近代の外交を整理する|会議で秩序を作る時代

地図と条約文書を囲んで話し合う19世紀ヨーロッパの外交官の色鉛筆イラスト
19世紀ヨーロッパの会議外交(AI制作・色鉛筆画)。歴史的背景をもとにしたイメージで、特定の人物・現場の再現ではありません。
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近代の外交を条約名と戦争名の暗記だと思っていませんか。本質は「列強が一堂に会し、複数の問題を一括で処理する」という方式が定着したことです。ウィーン会議からベルリン会議まで、会議は確かに秩序を作りました。しかし会議での調停が、次の対立の種をまいた——この往復で近代外交を一本に通します。

なぜ列強は一堂に会するようになったのか

一言でいうと主権国家どうしが使節の常駐と条約で関係を調整し、重大な案件は列強が集まる国際会議で一括して処理する方式。ウィーン会議で本格化し、勢力均衡を秩序の原理とした。
近代の概念を過去へ持ち込まない帝国主義は、19世紀後半のヨーロッパで使われるようになった語です。工業化を終えた国が、資本と人と兵をまとめて外へ動かし、世論もそれを支える——そうした条件を念頭に置いた言葉で(資本の輸出を軸に説明したレーニンらの理論はその一つの立場です)、「古代の帝国主義」「中世の帝国主義」という言い方は歴史用語として無理があります。ローマの拡大やモンゴルの征服は、その時代に相当する現象として征服による領域の拡大と覇権と書いてください。「外交」「勢力均衡」も近代の制度に属する語で、無自覚に過去へ当てはめると減点されます。この区別自体が問われる論点です。
  1. ウェストファリア条約で、対等な主権国家が並び立つという原理は確認された。
  2. しかし、その原理をどう運用して平和を保つかという手続きは定まっていなかった。
  3. 18世紀の戦争は、同盟を組み替えながら戦い、戦争ごとに個別の講和条約を結んで終わらせていた。
  4. ナポレオン戦争は、一国の突出がヨーロッパ全体を巻き込むことを示した。
  5. 個別の講和では再発を防げないと考えられ、戦勝国が一堂に会して領土と体制を一括で決める方式がとられた。
  6. こうして開かれたウィーン会議は、正統主義と勢力均衡を原則とした。
  7. 会議は一度きりでは終わらず、その後も定期的に集まって体制を維持する約束がなされた。
  8. 集まって決め、集まって守る——この手続きが近代外交の型になった。
秩序 誰が決めるか 手続き
冊封体制 中国の皇帝 冊封と朝貢、皇帝の権威による調停
中世西ヨーロッパ 教皇と皇帝という普遍的権威 破門・裁定・教会会議
ウェストファリア以後 対等な主権国家 戦争ごとの個別の講和条約
ウィーン体制 列強の協調 国際会議と定期の会合
国際連盟・国際連合 加盟国の総体 常設の機関と定例の会議
「原理はウェストファリア、手続きはウィーン」主権国家体制がいつ生まれたかを問われたらウェストファリア条約、その体制を運用する会議方式がいつ定着したかを問われたらウィーン会議——この2段構えで答えると精度が上がります。「原理の宣言と、それを回す手続きの発明は別の出来事である」と書ければ、近代国際秩序の理解として評価されます。日本世界史塾では、条約を暗記させる前に、この2段構えを先に固めます。なおウェストファリア条約が主権国家体制を一挙に作り上げたわけではないという指摘も近年は出ていますが、入試ではこの整理で答えて差し支えありません。

四国同盟と会議外交 — 維持の道具はなぜ壊れたのか

  1. 四国同盟はイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンが結び、ウィーン体制の維持を目的とした。
  2. 神聖同盟はロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で、キリスト教の理念にもとづく君主の連帯をうたった。
  3. アーヘン会議でフランスが加わり五国同盟となった。敗戦国を秩序の側に取り込むという処理である。
  4. 以後、トロッパウ・ライバッハ・ヴェローナと会議が重ねられ、各地の自由主義運動への干渉が決められた。
  5. ナポリやスペインの立憲運動は、この決定にもとづく出兵で鎮圧された。
  6. しかしイギリスは他国の国内体制への干渉に反対し、会議から距離を置いた。
  7. カニングのもとでイギリスはラテンアメリカ諸国の独立を事実上支持し、アメリカ合衆国のモンロー宣言とあいまって干渉は封じられた。
  8. こうして常設的な会議外交は1820年代のなかばには機能を失い、以後は案件ごとに関係国が集まる形に変わった。
会議 年 決まったこと
アーヘン 1818 フランスの加入、占領軍の撤退
トロッパウ 1820 革命への干渉の原則を確認
ライバッハ 1821 ナポリへの干渉を決定
ヴェローナ 1822 スペインへの干渉を決定。英が反発
四国同盟と神聖同盟の取り違え体制維持の実務を担ったのは四国同盟(のち五国同盟)です。神聖同盟は理念的な色彩が強く、拘束力は乏しかったとされます。イギリス・ローマ教皇・オスマン帝国は神聖同盟に加わっていません。「イギリスが神聖同盟に参加した」と書くと即座に誤りになります。
「なぜイギリスだけ離れたのか」を書くイギリスは海洋と通商で利益を得ており、大陸諸国の国内体制まで押さえ込む必要がありませんでした。むしろ干渉はラテンアメリカという新しい市場を閉ざすため不利です。「勢力均衡には賛成するが、内政干渉には反対する」という立場の違いが、協調を壊した——この一文が書ければ、ウィーン体制の崩壊を革命の話だけで説明する答案から一段抜けられます。
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東方問題とベルリン会議 — 調停が次の対立の種をまく

  1. オスマン帝国の弱体化により、その領土と海峡をめぐって列強の利害が衝突した。これが東方問題である。
  2. ロシアの南下に対し、イギリスは地中海の航路とインドへの通路を守るため、くりかえしこれを阻もうとした。
  3. クリミア戦争の講和はパリ条約で、黒海の中立化が定められ、ロシアの南下は一度止められた。
  4. ロシア=トルコ戦争でロシアが勝ち、サン=ステファノ条約で広大なブルガリアを保護下に置いた。
  5. イギリスとオーストリアが強く反発し、ビスマルクの調停でベルリン会議が開かれた。
  6. ベルリン条約でブルガリアの領域は大きく縮小され、オスマン帝国内の自治国とされた。
  7. オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を得た。イギリスのキプロス島の行政権は、会議に先立ってオスマン帝国と個別に取り決めたものである。
  8. ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立が承認された。
当事者 会議で得たもの 残された火種
ロシア 戦勝の一部のみ 不満が独露関係を冷やす
オーストリア ボスニアの行政権 バルカンでロシアと正面から対立
イギリス キプロス島の行政権 地中海の拠点を確保し南下を封じる
ブルガリア 自治 広い領域の回復を求め続ける
セルビア 独立の承認 のちオーストリアと対立の焦点に

その数年後に同じ都市で開かれたベルリン=コンゴ会議も、ビスマルクが招いた国際会議でした。バルカンを扱ったベルリン会議とは別の会議で、開かれた年も対象の地域も違いますから、名前の似ている2つを混ぜないでください。こちらでは先に実効支配した国が領有を主張できるという原則が確認されます。ウィーン会議は王朝の正統性を根拠に線を引き、これらの会議は大国の力の配分を根拠に線を引いた——同じ会議方式でも、線引きの根拠が半世紀で入れ替わっている点が要点です。

当事者が席にいない線を引かれる側は、決定の場にほとんど加われていません。ベルリン会議に列強と並んで出たのはオスマン帝国までで、ブルガリアやセルビアなど当事者となる地域の代表に決定権はありませんでした。ベルリン=コンゴ会議にいたっては、アフリカの側から出た者はいません。住民の分布や現地社会の事情ではなく、列強どうしの利害の配分として境界が決まったのです。「会議が民族問題を解決した」と書くのは不正確で、むしろ20世紀へ持ち越される対立の一因を作ったと書くほうが正確です。
「誠実な仲買人」という自称の読み方ビスマルクは自らを誠実な仲買人と呼びましたが、その調停は中立ではなく、ドイツの安全のための行動です。(公正な仲買人と訳す本もあります。)ロシアの取り分を削った結果、ロシアの不満が三帝同盟を動揺させ、のちの同盟の組み替えを招きました。「会議は対立を解決したのではなく、対立の形を変えて先送りした」——この評価まで書けると、論述の締めとして通用します。

会議の時代から同盟の時代へ — 組み替えと固定

  1. ビスマルクは統一後、フランスに味方を作らせないことを外交判断の基準にした。
  2. 三帝同盟でロシアとオーストリアを同時に抱え込み、対立を自国の枠内に収めた。
  3. ベルリン会議の調停も、バルカンの争いを会議の場に引き取って管理するためという側面が強い。
  4. 三国同盟には、チュニジアをめぐってフランスと対立したイタリアが加わった。
  5. オーストリアとロシアの両立が難しくなると、再保障条約でロシアとの関係だけを別に確保した。
  6. ヴィルヘルム2世はビスマルクを退け、再保障条約を更新しなかった。
  7. 行き場を失ったロシアはフランスに接近し、露仏同盟が成立した。
  8. ドイツの建艦と近東への鉄道進出がイギリスの警戒を招き、包囲される側が入れ替わった。
協定 年 調整された対立
日英同盟 1902 ロシアの東アジア進出への共同の備え
英仏協商 1904 エジプトは英、モロッコは仏の優越を相互承認
英露協商 1907 イラン・アフガニスタン・チベットをめぐる対立
三国協商 —— 英仏露の連携が形をとる
協商は軍事同盟ではない英仏協商・英露協商は、植民地をめぐる利害の調整を定めたもので、参戦の義務を書き込んだ条約ではありません。「三国協商は三国同盟と同じ性格の軍事同盟である」と書くと不正確です。「同盟ではないが、事実上の陣営として機能した」という言い方が安全です。
「会議で調整する時代から、あらかじめ味方を決める時代へ」ファショダ事件では、英仏は現地で衝突しかけながら交渉で処理し、フランスが譲歩しました。ところがモロッコをめぐってドイツが会議を求めたときには、アルヘシラスの国際会議でドイツが孤立し、会議がかえって陣営の固定を進める結果になります。「事後に集まって調整する方式から、事前に敵味方を固定する方式へ変わったからこそ、局地の紛争が全欧の戦争になった」——第一次世界大戦の原因はこの一文で書けます。

もう一つ見落とせないのが日英同盟です。ヨーロッパの大国がヨーロッパ以外の国と対等な同盟を結んだ点で画期であり、イギリスは光栄ある孤立を捨てました。皇帝の権威で上下を定めていた東アジアの秩序が終わった場所に、条約で対等を定める方式が及んだ——冊封体制の終わりと近代外交の拡大は、同じ現象の裏表として理解できます。

入試で狙われるポイント総覧

  • ウィーン会議=主導はメッテルニヒ、原則は正統主義(提唱はタレーラン)と勢力均衡
  • 四国同盟→アーヘン会議でフランスが加わり五国同盟。神聖同盟はアレクサンドル1世の提唱で、英・ローマ教皇・オスマン帝国は不参加
  • 会議外交は、内政干渉に反対したイギリスの離反で機能を失った
  • クリミア戦争の講和=パリ条約、黒海の中立化
  • ロシア=トルコ戦争→サン=ステファノ条約→ベルリン会議(主催はビスマルク)→ベルリン条約
  • ベルリン条約=ブルガリア縮小、墺がボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立。英のキプロス島の行政権はオスマン帝国との個別の取り決めによる
  • ビスマルク外交=三帝同盟・三国同盟・再保障条約。狙いはフランスに同盟相手を与えないこと
  • ヴィルヘルム2世が再保障条約を更新せず→露仏同盟→日英同盟→英仏協商→英露協商→三国協商
  • ファショダ事件はフランスが譲歩、モロッコをめぐるアルヘシラス国際会議ではドイツが孤立
共通テストでの出方「ベルリン会議はイギリスが主催した」は誤り(主催・調停はビスマルク)。「再保障条約はロシアとオーストリアの間で結ばれた」も誤り(ドイツとロシア)。「英仏協商でフランスがエジプトにおける優越を認められた」も誤り(エジプトはイギリス、モロッコはフランス)。会議の主催国、条約の当事国、協商で認め合った地域の組み合わせが、この単元の三大出題箇所です。
この記事の一問一答(確認テスト)
Q1. ウィーン会議で掲げられた2つの原則を答えよ。
A. 正統主義と勢力均衡
Q2. 四国同盟にフランスが加わって五国同盟となった会議は。
A. アーヘン会議
Q3. ベルリン会議を主催し「誠実な仲買人」と称した人物は。
A. ビスマルク
Q4. ベルリン条約でオーストリアが行政権を得た地域は。
A. ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
Q5. ビスマルク退陣後にロシアがフランスと結んだ同盟は。
A. 露仏同盟
Q6. イギリスが光栄ある孤立を放棄する契機となった1902年の同盟は。
A. 日英同盟

よくある質問

「会議で秩序を作る」とはどういう意味ですか?
領土や体制の問題を、当事国だけの取引ではなく列強が一堂に会して一括で処理する方式のことです。ウィーン会議で定着し、ベルリン会議まで続きました。ただし決定に加わるのは大国だけで、線を引かれる側は席にいません。
ベルリン会議はなぜ次の対立を生んだのですか?
調停が誰かの取り分を削る形で成り立っていたからです。ロシアは南下を阻まれて不満を抱き、オーストリアはボスニアの行政権を得たことでバルカンにおいてロシアやセルビアと正面から対立するようになりました。
三国協商は三国同盟と同じ軍事同盟ですか?
違います。英仏協商と英露協商は植民地をめぐる利害の調整であり、参戦の義務を定めた条約ではありません。事実上の陣営として機能した、という書き方が正確です。
帝国主義という語は古代や中世にも使えますか?
使えません。帝国主義は19世紀後半に成立した概念で、資本の輸出や国民の動員を前提とします。ローマやモンゴルの拡大は、その時代に相当する現象として征服による領域の拡大と覇権と書いてください。この区別自体が入試の論点です。
この記事について

世界史専門オンライン塾「日本世界史塾」の編集部が、入試での問われ方を基準に作成しています。当塾では次の講師が指導にあたっています。

藤
藤原 進之介日本世界史塾 代表/株式会社数強塾 代表数強塾グループ創業者。東進最年少講師、代々木ゼミナールの日本初となる情報Ⅰ講師を務め、著書は9冊。累計2,500名以上の指導と、40名を超えるプロ講師体制を築いた。
伊
伊藤 敏代々木ゼミナール世界史講師/数強塾グループの映像授業を担当筑波大学・同大学院修士課程修了。ダイヤモンド・オンラインで「カリスマ世界史講師が教える誰も知らない本当の世界史」を連載。「キャラクターがいて、ストーリーがある。それが歴史」を掲げ、通説を多様な視点から捉え直す授業を行う。

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