近世の戦争を整理する|宗教の戦争から国家の戦争へ

近世の戦争を整理する|宗教の戦争から国家の戦争へ
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近世の戦争は「宗教戦争の時代」と覚えがちですが、本質は「戦う名目が、神から国益へ痩せていく200年」です。イタリア戦争に始まり、ユグノー戦争と三十年戦争を通過して、スペイン継承戦争と北方戦争にたどり着くころには、誰も神の名を持ち出さなくなりました。この名目の移動を一本の線でたどります。

「何のために戦うか」で並べると、近世の戦争は3層になる

一言でいうと15世紀末から18世紀にかけてヨーロッパで戦われた一連の戦争。王朝の相続権・宗派の対立・国家の利害という3つの名目が重なりあうが、時代が下るほど国益と勢力均衡が前面に出て、宗派は後景に退いていく。
名目の層 掲げられた大義 代表的な戦争
王朝の相続 正統な継承権を主張する イタリア戦争
宗派 正しい信仰を守る ユグノー戦争、オランダ独立戦争
名目と実態のずれ 宗派を掲げつつ国益で動く 三十年戦争
国益と均衡 一国の突出を防ぐ スペイン継承戦争、七年戦争
領土と海の出口 港と交易路の取り分 北方戦争
  1. 1494年、フランス王のイタリア侵入によってイタリア戦争が始まった。
  2. ねらいは豊かなイタリア諸都市であり、掲げられた名目は王家の相続権であった。
  3. 対立の主軸はやがてフランスのヴァロワ家ハプスブルク家に定まった。
  4. フランソワ1世パヴィアの戦いカール5世に敗れ、捕らえられた。
  5. 劣勢に立ったフランソワ1世は、オスマン帝国のスレイマン1世と手を結んだ。
  6. キリスト教国の王が、イスラームの帝国と組んで、同じキリスト教国と戦ったのである。
  7. 皇帝側の軍がローマを略奪し、教皇が屈服を強いられる事件も起きた。
  8. 1559年のカトー=カンブレジ条約で終結し、イタリアはスペインの優位の下に置かれた。

政治を宗教や道徳から切り離して論じたマキァヴェリの議論が、このイタリア戦争の混乱のただ中から生まれたことは、偶然ではないと考えられています。大義がこれほど無力に見える戦場では、人は力の配置そのものを見るしかなくなるからです。近世の戦争史は、ここから始まると押さえてください。

イタリア戦争と宗教改革は同時に進んでいたルターの登場(1517年)とイタリア戦争は重なって進行しています。カール5世が宗教改革に十分な力を割けなかったのは、西でフランス、東でオスマン帝国を同時に相手にしていたからです「皇帝の手が塞がっていたことが、新しい宗派に定着の時間を与えた」——この一文が書けると、宗教改革がなぜドイツで生き延びたかまで説明できます。
「宗教戦争」と一括りにしない近世の戦争を全部まとめて宗教戦争と呼ぶと、そこで思考が止まります。ひとつの戦争の中に相続権・領土・交易路・宗派が同居しており、どれが前面に出るかは局面ごとに動きました。答案では掲げた名目と、実際の争点を分けて書く。これだけで論述の構造が採点者に伝わります。

宗派が国境より重かった半世紀 — ユグノー戦争とオランダ独立戦争

  1. イタリア戦争が終わった直後、フランスではアンリ2世の急死によって王権が弱まった。
  2. 対外戦争を失った貴族の争いが国内へ向かったという見方がある。
  3. 1562年、カトリックユグノー(カルヴァン派)の内戦が始まった。
  4. 1572年のサンバルテルミの虐殺によって、対立は容易に修復できないものとなった。
  5. やがてヴァロワ朝が断絶し、ユグノーであったアンリ4世が即位してブルボン朝を開いた。
  6. アンリ4世は自らカトリックに改宗し、多数派の支持を取り付けた。
  7. 1598年、ナントの王令を発し、ユグノーに信仰の自由と、カトリック教徒とほぼ同等の権利を認めた(公の礼拝が許された場所には制限があった)。
  8. 宗派の一致をあきらめることで、王国の統一を回復したのである。

この時期、宗派の正しさより王国の秩序を優先すべきだと主張した一群をポリティーク派と呼びます。国家の最高権力を主権として論じたボーダンも、この立場に近いとされます。信仰の統一より、国家が壊れないことを上に置く——この考え方が、次の世代のフランスの行動を準備しました。

ナントの王令は「誰に」自由を与えたかアウクスブルクの和議は「領主が宗派を選ぶ」仕組みで、住民個人の選択ではありませんでした。これに対してナントの王令は、国王が自分とは違う宗派の臣民の信仰を認めた点が新しい。「宗派の統一を、国家の成立条件から外した最初の一歩」と書けると、単なる年号暗記から抜け出せます。

オランダ独立戦争 — 名目は信仰、実質は税と自治

  • 掲げられた名目はカルヴァン派への弾圧に対する抵抗であった。
  • しかし実際に反発を集めたのは重税と、都市の自治への介入であった。
  • だからこそ、宗派の異なる勢力も一時は同じ側で戦うことができた。
  • その一方で、カトリックが多い南部が脱落し、北部だけが独立を続けた

同じ16世紀、オスマン帝国は非ムスリムの宗教共同体に一定の自治を認め、宗派の違いを統治の仕組みの中へ組み込んでいました。ヨーロッパは「宗派の一致」を国家の条件と考えたために内戦を招き、オスマン帝国は「宗派の併存」を統治の型として制度化した——この対比は、宗教と国家の関係を問う論述で強く効きます。ただしオスマン帝国にも反乱がなかったわけではなく、宗派の違いが即座に国家の分裂に結びつきにくかったという程度に押さえてください。

87年後に反転するナントの王令は、1685年にルイ14世によって廃止されます。ユグノーには商工業の担い手が多く、多数が国外へ去ったことでフランスは技術と資本を失ったとされます。「宗教の統一を取り戻そうとして、経済を手放した」——寛容が経済的な合理性を持つという論点の、最も分かりやすい実例です。
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名目が裏切られた戦争 — リシュリューは国内と国外で逆をやった

  1. ドイツではアウクスブルクの和議カルヴァン派を認めておらず、不満が残されていた。
  2. 1618年、ベーメンの新教徒の反乱から三十年戦争が始まった。
  3. デンマーク、続いてスウェーデンが新教側で介入し、戦争は帝国の外へ広がった。
  4. 同じころフランスの宰相リシュリューは、国内でラ=ロシェルを攻略した。
  5. これによりユグノーの軍事的・政治的な特権を奪い、信仰そのものは残した。
  6. ところが対外的には、新教国へ資金を送り、やがて自ら新教側で参戦した。
  7. 国内では新教徒を抑え、国外では新教徒を助ける——信仰が判断の基準でないことは明白であった。
  8. 理由はただ一つ、ハプスブルク家に東西から挟まれた位置を崩すことであった。
この一文で近世の転換を書き切る「リシュリューは、国内では新教徒の特権を奪いながら、国外では新教側を支援した」——宗教が戦争の理由ではなく道具になったことの、動かぬ証拠です。三十年戦争を論じるとき、参戦国の順番を並べるより、この矛盾を一文で出すほうがはるかに評価されます。日本世界史塾では、この矛盾を近世論述の入口として最初に扱っています。

ウェストファリア条約は、宗教問題を「どう処理したか」

条約の中身そのものより、処理のしかたを見てください。宗派の帰属はある基準の年の状態をもとに、機械的に確定されました。どちらの信仰が正しいかを問わず、既成事実を線引きしただけです。カルヴァン派の公認も、教義の当否ではなく参戦国の力関係が決めました。教皇はこの条約に抗議したとされますが、各国はこれを顧みませんでした。

つまりウェストファリア条約は、宗教を「国家が交渉する議題の一つ」に格下げしたのです。同じ17世紀の東アジアでは、明清の交替をはさみながらも冊封と朝貢による上下の秩序が基本で、対等な国どうしが会議で取り決めるという型は根づきませんでした。清がロシアと結んだネルチンスク条約は対等な形式をとりましたが、これは例外的な事例とされます。近世ヨーロッパの特殊性は、並び立つ主権国家を前提に秩序を組み立てた点にあります。

「宗教戦争が終わった」と書くときの留保宗教が消えたわけではありません。イギリスの革命には宗派対立が濃く残り、ナントの王令の廃止は1685年です。正確には「宗教が、国家の目的そのものを決めることはなくなった」信仰は動機として残り、国益が上位の判断基準になった——この書き分けができると、減点を避けられます。

相続と均衡だけが残る — スペイン継承戦争から北方戦争へ

戦争 掲げた名目 実際の争点
スペイン継承戦争 スペイン王位の継承権 ブルボン家の突出の阻止と植民地
北方戦争 旧領の回復と同盟の義務 バルト海の出口と沿岸の港
オーストリア継承戦争 女性による継承の可否 シュレジエンという工業地帯
七年戦争 シュレジエンの帰属 北米とインドの覇権
  1. 1700年、スペインのハプスブルク家が断絶し、ルイ14世の孫が王位に就いた。
  2. イギリス・オランダ・オーストリアはフランスとスペインが一つになることを恐れて対抗した。
  3. 1713年のユトレヒト条約は、孫の即位を認めるかわりに、両国の王位が合同することを禁じた
  4. 相手を滅ぼさず、突出だけを止める——勢力均衡という考え方がここで形になった。
  5. 同時にイギリスはジブラルタルや北米の領土、スペイン領植民地へ奴隷を供給する権利を得た。
  6. 一方バルト海では、ロシアのピョートル1世スウェーデンのカール12世と戦った(北方戦争)。
  7. ポルタヴァの戦いを転機にロシアが優勢となり、ニスタット条約でバルト海沿岸を獲得した。
  8. 三十年戦争でバルト海の覇権を得たスウェーデンは、ここでその地位を手放した。
  1. オーストリアではカール6世が、娘マリア=テレジアの継承を諸国に承認させていた。
  2. しかし死後にその約束は反故にされ、オーストリア継承戦争が起きた。
  3. プロイセンのフリードリヒ2世シュレジエンを占領した。
  4. アーヘンの和約で継承は認められたが、シュレジエンは戻らなかった。
  5. マリア=テレジアは奪回のため、宿敵であったフランスと結んだ外交革命)。
  6. 続く七年戦争は北米とインドにも及び、イギリスが海外の覇権を確立した。
  7. 勝ったイギリスは巨額の戦費を抱え、その課税がアメリカ独立を招いた。
  8. 報復として独立を支援したフランスも財政が破綻し、フランス革命へ向かった。
均衡は目的ではなく手段だと書くユトレヒト条約は、敵国の王位継承そのものは認め、二つの王位が一つになることだけを禁じました。ここまで来ると戦争は信仰でも正義でもなく、取り分の調整です。「一国の突出を防ぐことが、秩序の維持そのものになった」——この原理はウィーン会議にそのまま受け継がれます。近世と近代を一続きに書ける、便利な接続点です。
「継承戦争」という名前にだまされないスペイン継承戦争もオーストリア継承戦争も、誰が王位を継ぐかは入口にすぎません。講和で実際にやりとりされたのは領土・要塞・通商上の権利でした。「名目は継承、実質は領土と通商」と一行そえるだけで、答案の見え方が変わります。

近世の終わりに、戦争の名目は国益まで痩せ細りました。しかしこれで終わりではありません。フランス革命以降は「国民」や「民族」が新しい大義となり、20世紀には思想が加わります。宗教 → 王朝と国益 → 国民と民族 → 思想という交替の中に置けば、近世とは「神の名が外れた段階」だと位置づけられます。

入試で狙われるポイント総覧

  • イタリア戦争=ヴァロワ家 対 ハプスブルク家。フランソワ1世がオスマン帝国と提携
  • 終結はカトー=カンブレジ条約(1559年)。イタリアはスペインの優位の下へ
  • ユグノー戦争サンバルテルミの虐殺アンリ4世の改宗→ナントの王令(1598年)
  • ナントの王令は臣民個人の信仰を認めた点で、領主の選択権を定めたアウクスブルクの和議と違う
  • ルイ14世によるナントの王令の廃止(1685年)で商工業の担い手が国外へ流出
  • オランダ独立=名目は信仰の弾圧、実質は重税と自治への介入南部は脱落
  • 三十年戦争リシュリューが国内で新教徒を抑え、国外で新教側を助けた
  • ユトレヒト条約(1713年)=仏西の王位の合同を禁止。イギリスがジブラルタルを獲得
  • 北方戦争ピョートル1世カール12世を破り、ニスタット条約でバルト海沿岸を得る
共通テストでの出方「ナントの王令はカルヴァン派の信仰を禁止した」は誤り(認めた)。「ユトレヒト条約はブルボン家によるスペイン王位の継承を認めなかった」も誤り(認めたうえで合同を禁じた)。「北方戦争によってスウェーデンがバルト海の覇権を確立した」も誤り(失った側)。王令の内容と、条約で「認めたこと・禁じたこと」の取り違えが定番です。
この記事の一問一答(確認テスト)
Q1. イタリア戦争でフランソワ1世が対抗のために結んだ国と、その君主を答えよ。
A. オスマン帝国、スレイマン1世
Q2. ユグノー戦争を終結させた王令と、それを発した国王を答えよ。
A. ナントの王令、アンリ4世
Q3. ナントの王令とアウクスブルクの和議の違いを一言で。
A. 前者は臣民個人の信仰を認め、後者は領主の宗派選択権を定めた
Q4. リシュリューの宗教政策が国内と国外で正反対だった内容を答えよ。
A. 国内ではユグノーの軍事的・政治的特権を奪い、国外では新教側を支援した
Q5. スペイン継承戦争の講和条約と、そこで示された原理を答えよ。
A. ユトレヒト条約、勢力均衡(仏西の王位の合同を禁止)
Q6. 北方戦争の講和条約と、覇権を失った国を答えよ。
A. ニスタット条約、スウェーデン

よくある質問

近世の戦争が多すぎて整理できません。どう並べればいいですか?
「掲げた名目」で層に分けてください。王朝の相続(イタリア戦争)、宗派(ユグノー戦争)、名目と実態のずれ(三十年戦争)、国益と均衡(スペイン継承戦争・七年戦争)という4層に置くと、個々の戦争が線でつながります。
リシュリューはなぜ国内と国外で逆のことをしたのですか?
信仰ではなく、国家の位置が判断の基準だったからです。国内では王権に対抗する勢力を削り、国外ではハプスブルク家に挟まれた状況を崩す。どちらも同じ目的に沿った行動で、宗派はそのつど利用されただけでした。
ナントの王令はなぜ重要なのですか?
国王が、自分と違う宗派の臣民の信仰を認めたからです。宗派の統一を国家の成立条件から外す一歩であり、1685年の廃止で人材が流出した事実とセットにすると、寛容の経済的な意味まで書けます。
「継承戦争」は本当に王位の争いなのですか?
王位は入口にすぎません。講和条約で実際にやりとりされたのは領土・要塞・通商上の権利です。名目は継承、実質は領土と通商——この二層で読むと、近世の講和条約が一気に理解しやすくなります。
この記事について

世界史専門オンライン塾「日本世界史塾」の編集部が、入試での問われ方を基準に作成しています。当塾では次の講師が指導にあたっています。

藤原 進之介日本世界史塾 代表/株式会社数強塾 代表数強塾グループ創業者。東進最年少講師、代々木ゼミナールの日本初となる情報Ⅰ講師を務め、著書は9冊。累計2,500名以上の指導と、40名を超えるプロ講師体制を築いた。
伊藤 敏代々木ゼミナール世界史講師/数強塾グループの映像授業を担当筑波大学・同大学院修士課程修了。ダイヤモンド・オンラインで「カリスマ世界史講師が教える誰も知らない本当の世界史」を連載。「キャラクターがいて、ストーリーがある。それが歴史」を掲げ、通説を多様な視点から捉え直す授業を行う。

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