ピューリタン革命と名誉革命とは?議会が王権に勝つまで

日本世界史塾編集部世界史専門オンライン個別指導担任制マンツーマン/全国・海外対応
17世紀のイギリスで起きた2つの革命は、「なぜイギリスだけ絶対王政が続かなかったのか」という世界史最大級の問いへの答えです。混同されがちですが、ピューリタン革命=流血と共和政の失敗/名誉革命=無血と立憲君主政の確立と対比させれば、一発で整理できます。
この記事でわかること
2つの革命を一枚で比較する
| ピューリタン革命 | 名誉革命 | |
|---|---|---|
| 時期 | 1640年代〜1660年 | 1688〜89年 |
| 国王 | チャールズ1世 | ジェームズ2世 |
| 性格 | 内戦と流血。国王を処刑 | ほぼ無血。国王が亡命 |
| 中心人物 | クロムウェル | 議会(トーリ党とホイッグ党の協力) |
| 結果 | 共和政 → クロムウェルの独裁 → 王政復古 | 権利の章典 → 立憲君主政 |
| 評価 | 急進的すぎて反動を招いた | 議会主権が確立し、以後の政治体制の基礎に |
一言でいうと背景に共通するのは、国王の課税権をめぐる争いである。「議会の同意なしに課税できるか」——この一点が、両革命を貫く争点だった。
前史 — なぜイギリスでは議会が強かったのか
- マグナ=カルタ(1215年)— ジョン王に対し貴族が課税には同意が必要と認めさせた。「王も法に従う」という原則の起源。
- 模範議会(1295年)— エドワード1世が召集。のち貴族院と庶民院の二院制へ。
- ジェントリ(郷紳)の存在 — 大陸の貴族と異なり、地方行政を担いながら庶民院に議席を持つ層が形成された。彼らが議会の実質的な担い手となった。
- 宗教改革 — ヘンリ8世が国王を教会の首長とした(首長法)。ただし国教会は教義はプロテスタント、儀式はカトリック的という折衷で、ピューリタン(カルヴァン派)が不満を持ち続けた。
論述の重要点「中世以来の議会の伝統」と「ジェントリという担い手」があったからこそ、イギリスでは王権への抵抗が組織化できました。大陸の絶対王政と比較するときは、この社会構造の違いを書いてください。
世界史の学習情報をLINEで受け取る
年号の覚え方・論述の型・入試分析を無料で配信しています。
ピューリタン革命 — 共和政の実験と失敗
- ジェームズ1世(ステュアート朝)が王権神授説を唱え、議会と対立。ピューリタンを弾圧したため、一部はピルグリム=ファーザーズとしてアメリカへ渡った。
- チャールズ1世が議会の同意なく課税。議会は権利の請願(1628年)を提出したが、王は議会を解散し11年間開かなかった。
- スコットランドの反乱への対応で戦費が必要となり議会を再召集。対立が決裂し、1642年に内戦が始まった。
- 議会派(ピューリタンが中心)がクロムウェルの鉄騎隊・ニューモデル軍で王党派を破った。
- 1649年、チャールズ1世を処刑し、共和政を樹立した。
- クロムウェルはアイルランド征服、航海法(1651年)制定、イギリス=オランダ戦争を行い、護国卿として厳格な軍事独裁を敷いた。
- 彼の死後、独裁への反発から王政復古(1660年、チャールズ2世)となった。
革命の帰結に注意ピューリタン革命は共和政を樹立したが定着せず、王政復古で振り出しに戻ったと評価されます。急激な変革が反動を招いた例として、フランス革命後のナポレオンや王政復古と比較できます。
なお航海法は、オランダの中継貿易を排除してイギリス商人を保護するもので、重商主義政策の代表例です。これがイギリス=オランダ戦争を引き起こし、オランダの海上覇権が終わってイギリスへ移る転機となりました。
名誉革命 — 無血で議会主権を確立
- 王政復古後、チャールズ2世とジェームズ2世がカトリックと専制を志向し、議会と再び対立した。
- 議会は審査法(公職を国教徒に限る)と人身保護法で対抗した。
- この過程で、王権を擁護するトーリ党と、議会の権利を主張するホイッグ党という党派が生まれた(のちの保守党と自由党の起源)。
- 1688年、両党が協力してオランダ総督ウィレム(ウィリアム3世)とその妻メアリ2世を招請。ジェームズ2世はフランスへ亡命した。
- 1689年、議会が提出した権利の宣言を新王が承認し、権利の章典として成立した。
| 権利の章典の内容 | 意味 |
|---|---|
| 議会の同意なしに課税・法律の停止をしない | 課税権が議会にあることを確定 |
| 議会内での言論の自由 | 議員が王を恐れず発言できる |
| 議会の定期的な開催 | 王が議会を無視できない |
| 請願権の保障 | 臣民の権利の明文化 |
これにより「国王は君臨すれども統治せず」という原則へ向かう道が開かれました。ハノーヴァー朝のジョージ1世が英語を解さなかったこともあり、実務は内閣が担うようになります。ウォルポールが「内閣は議会の信任にもとづく」という責任内閣制の慣行を確立しました。
なぜ「名誉」なのかほとんど流血を伴わずに体制転換を実現したためです。ピューリタン革命の内戦と国王処刑という経験があったからこそ、議会も王も妥協を選びました。「前の革命の失敗が、次の革命を穏健にした」という因果は論述で効きます。
入試で狙われるポイント総覧
- ピューリタン革命=チャールズ1世処刑・クロムウェル・共和政 → 王政復古
- 名誉革命=ジェームズ2世亡命・無血・権利の章典 → 立憲君主政
- 前史=マグナ=カルタ・模範議会・ジェントリ
- 権利の請願(1628)と権利の章典(1689)の区別
- 航海法(1651)→ イギリス=オランダ戦争 → オランダの覇権終焉
- トーリ党(王権擁護)とホイッグ党(議会の権利)
- 責任内閣制はウォルポールのもとで慣行化
共通テストでの出方「権利の章典はチャールズ1世が承認した」は誤り(ウィリアム3世とメアリ2世)。「名誉革命で共和政が成立した」も誤り(立憲君主政)。2つの革命の要素を入れ替えた選択肢が最頻出です。日本世界史塾では、上の比較表を白紙から書けるまで確認します。
この記事の一問一答(確認テスト)
- Q1. 1628年に議会がチャールズ1世に提出した文書は。
- A. 権利の請願
- Q2. ピューリタン革命で議会派を率い、護国卿となった人物は。
- A. クロムウェル
- Q3. クロムウェルがオランダの中継貿易を排除するために制定した法は。
- A. 航海法
- Q4. 名誉革命で亡命した国王と、招かれた国王夫妻は。
- A. ジェームズ2世/ウィリアム3世とメアリ2世
- Q5. 1689年に成立した、議会の権利を定めた文書は。
- A. 権利の章典
- Q6. 責任内閣制の慣行を確立した首相は。
- A. ウォルポール
よくある質問
- 2つの革命はどう区別すればいいですか?
- ピューリタン革命=流血・国王処刑・共和政(のち王政復古)、名誉革命=無血・国王亡命・立憲君主政と対比してください。結果がまったく異なる点が最重要です。
- なぜイギリスだけ絶対王政が続かなかったのですか?
- マグナ=カルタ以来の議会の伝統があり、ジェントリという担い手が議会を支え、さらに宗教対立が王権への抵抗と結びついたためです。
- ピューリタン革命は失敗ですか?
- 共和政が定着せず王政復古に至った点では失敗です。しかし「議会の同意なき課税は認めない」という原則を武力で示したことが、名誉革命での妥協につながりました。
- 「君臨すれども統治せず」はいつからですか?
- 権利の章典(1689年)が出発点で、ハノーヴァー朝期にウォルポールが責任内閣制の慣行を確立したことで実質化しました。一度に成立したものではありません。
この記事について
世界史専門オンライン塾「日本世界史塾」の編集部が、入試での問われ方を基準に作成しています。当塾では次の講師が指導にあたっています。
藤
藤原 進之介日本世界史塾 代表/株式会社数強塾 代表数強塾グループ創業者。東進最年少講師、代々木ゼミナールの日本初となる情報Ⅰ講師を務め、著書は9冊。累計2,500名以上の指導と、40名を超えるプロ講師体制を築いた。
伊
伊藤 敏代々木ゼミナール世界史講師/数強塾グループの映像授業を担当筑波大学・同大学院修士課程修了。ダイヤモンド・オンラインで「カリスマ世界史講師が教える誰も知らない本当の世界史」を連載。「キャラクターがいて、ストーリーがある。それが歴史」を掲げ、通説を多様な視点から捉え直す授業を行う。
世界史を「暗記科目」から「得点源」に変える
日本世界史塾は、担任制マンツーマンの世界史専門オンライン塾です。
まずは体験授業で、あなたの答案と勉強法を直接診断します。
体験授業に申し込む(3,300円・税込)
入塾を前提とした勧誘は行いません/全国・海外から受講可

