この単元の位置づけ
単元11でナポレオンが各地に持ち込んだ革命の理念と、支配された側に芽生えた民族意識——その二つを封じるために作られたのがウィーン体制です。そして次の単元(帝国主義)では、完成した国民国家が外へ向かいます。
時計を戻そうとした
ウィーン体制
ナポレオン戦争後の秩序を決めたウィーン会議は、フランス革命以前の主権と領土を正当とする正統主義を原則とし、大国が互いに突出しないよう勢力均衡を図りました。オーストリアのメッテルニヒが主導し、自由主義とナショナリズムは体制への脅威として抑圧されます。しかしすでに広まった理念を、会議で消すことはできませんでした。
抑えるほど、外側から崩れた
体制の動揺と1848年
まずラテンアメリカが独立し、ギリシアも列強の思惑が絡んで独立を認められます。
フランスでは七月革命が起き、その影響でベルギーが独立しました。
そして二月革命が起こると、その波はウィーンにも及びます。メッテルニヒが失脚し、ウィーン体制は崩壊しました。各地で自由主義と民族運動が噴出したこの年は「諸国民の春」と呼ばれます。
ただしドイツ統一を目指した議会は実現に至りませんでした。1848年の運動は多くが挫折します。
重要なのはその後です。下からの運動が失敗したことで、上から統一を進める道が選ばれました。
役割を分けて、統一した
イタリア
サルデーニャ王国の首相カヴールは、外交でイタリア統一を進めました。クリミア戦争に参戦して発言力を得、フランスと結んでオーストリアと戦い、北部と中部を確保します。同じ時期、ガリバルディが義勇軍で南部の両シチリア王国を制圧し、これをサルデーニャ王に献上しました。カヴールの外交とガリバルディの武力、どちらが欠けても統一は成立しません。役割分担で理解するのがこの項目のコツです。
三つの戦争で、作り上げた
ドイツ
プロイセン首相ビスマルクは、統一は演説や多数決ではなく鉄と血によって決まると述べ、軍備を拡張しました。デンマークとの戦争、オーストリアとの戦争、そしてフランスとの戦争を経てドイツ帝国が成立します。オーストリアを排除した形で統一されたため、これを小ドイツ主義による統一と呼びます。統一後のビスマルクは、報復を恐れてフランスを孤立させる同盟網を築き、国内では社会主義を弾圧しつつ社会保険を整備しました。
それぞれの国が、国民をつくった
各国の再編
イギリスは選挙法改正を重ねて参政権を広げ、フランスは第二帝政を経て第三共和政へ移ります。ロシアはクリミア戦争の敗北を機に農奴解放へ踏み切り、アメリカは南北戦争を経て統一市場を確立しました。日本も明治維新で中央集権化を進めます。形は違っても、いずれも「国民」という単位を作り出す作業だったという点で共通しています。この比較は論述で頻出です。
混同しやすいところ
正誤判定の誤り選択肢は、ここを狙って作られます。
七月革命=復古王政を倒し、ルイ=フィリップの王政へ。影響でベルギーが独立。二月革命=王政を倒して第二共和政へ。影響がウィーンに及びウィーン体制が崩壊。どちらが体制を崩したかが問われます。
カヴール=サルデーニャ首相、外交で北中部を確保。ガリバルディ=義勇軍で南部を制圧し、王に献上。役割の入れ替えが定番です。
小ドイツ主義=オーストリアを除いてプロイセン中心に統一。大ドイツ主義=オーストリアを含める構想。実際に成立したのは小ドイツ主義による統一です。
正統主義=革命前の主権と領土を正当とする原則。勢力均衡=どの国も突出させない配置。どちらもウィーン体制の原則ですが、内容が入れ替えられます。
早稲田・明治・青山学院ではこう問われる
19世紀の欧米史は、私大で最も出題量が多い時代のひとつです。
形式は正誤問題・説明問題・年代整序が頻出で、各大問の最後の2〜3題が一問一答形式の記述問題(全体で10題)。用語は大部分が教科書レベルですが、記述で書けるかどうかが分かれ目です。
政治経済学部・法学部では、この時代が論述の主題になりやすい点にも注意してください。教育学部の対策を見るMEIJI明治大学学部の性格がそのまま出題に反映されます。政治経済学部・経営学部は政治外交史が分野なので、ウィーン体制からビスマルク外交までは直撃です。同盟関係の変遷を図で整理しておいてください。明治の傾向と対策を見るAOYAMA青山学院大学欧米史が中心で重点分野です。文化史が必出なので、この時期のロマン主義や写実主義など、ナショナリズムと結びついた芸術も押さえてください。青山学院の傾向と対策を見る
この単元は、入試でこう問われる
出題形式ごとに例題を用意しました。答えを見る前に、まず自分で書いてみてください。
19世紀のヨーロッパについて述べた文として誤っているものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。
- ウィーン会議では、正統主義と勢力均衡が原則とされた。
- 七月革命の影響を受けて、メッテルニヒが失脚しウィーン体制は崩壊した。
- ガリバルディは、両シチリア王国を制圧してサルデーニャ王に献上した。
- ドイツ帝国は、オーストリアを含まない形で統一された。
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なぜ誤りか。メッテルニヒの失脚とウィーン体制の崩壊は二月革命の影響です。七月革命の影響はベルギー独立などにとどまり、体制そのものは維持されました。
この設問の型。二つの革命の影響の大きさを入れ替える型です。「七月=ベルギー独立まで/二月=ウィーン体制崩壊まで」と、波及の到達点をセットで覚えてください。
次の文中の空欄( A )〜( C )に入る最も適切な語句を答えよ。
ウィーン会議はオーストリアの外相( A )が主導し、革命前の状態を正当とする( B )が原則とされた。のちにプロイセン首相となった( C )は、鉄と血によって統一を実現すると唱え、軍備を拡張した。
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この設問の型。体制を作った人物と、それを乗り越えた人物を一問で対比させる形式です。19世紀前半=メッテルニヒ/後半=ビスマルクという時代の主役の交代を押さえておくと迷いません。
上位校ではここが深くなる。「正統主義を唱えたフランス代表は」(タレーラン)、「イタリア統一を外交で進めたサルデーニャ首相は」(カヴール)まで問われます。
ウィーン体制がどのような原則にもとづいて成立し、なぜ崩壊したのかを120字程度で説明せよ。
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ウィーン体制は、革命前の主権と領土を正当とする正統主義と、大国間の勢力均衡を原則として成立し、自由主義と民族運動を抑圧した。しかしフランス革命とナポレオン戦争を通じて広まったこれらの理念は各地で運動となり、二月革命の波及によってメッテルニヒが失脚して崩壊した。(127字)
採点者が探しているもの。加点の核心は「抑圧した対象が、体制を崩した」という構造です。原則を並べただけ、崩壊の経緯を書いただけでは片手落ちになります。抑え込んだものが力を増して跳ね返したという因果を一文で示してください。
よくある失点。崩壊の原因を「二月革命が起きたから」で終えること。なぜ革命が起きたのか、その背景にある理念の広がりまで書くと答案が完成します。
教育学部では、各大問の最後の2〜3題が一問一答形式の記述問題になります。ここではその形式を再現します。次の設問1〜4に答えよ(設問1〜3は語句を記述、設問4は説明)。
設問1 1848年に各地で自由主義・民族運動が噴出した状況を指す呼称を記せ。
設問2 オーストリアを除外してプロイセン中心にドイツを統一する構想を何と呼ぶか記せ。
設問3 クリミア戦争の敗北を機に、ロシアで1861年に発せられた法令を記せ。
設問4 ビスマルクがドイツ統一後に採った対外政策の基本方針を、60字程度で説明せよ。
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設問4の解答例。普仏戦争で敗れたフランスの報復を防ぐため、同盟網を築いてフランスを国際的に孤立させ、ヨーロッパの現状維持を図った。(60字)
この形式の特徴。教育学部は大問4題・小問50問という構成で、第1・2問が欧米史、第3・4問がアジア史です。各大問の後半が記述になるため、選択肢がない状態で書けるかが問われます。選択問題なら思い出せる用語も、白紙から書くとなると精度が落ちます。
記述問題の落とし穴。「諸国民の春」「小ドイツ主義」「農奴解放令」はいずれも読めば分かる語ですが、漢字で正確に書けるかは別問題です。選択問題で正解できていても記述で落とす受験生は多く、ここが差になります。頻出用語は一度は手で書いて確認してください。
設問4のような説明問題。教育学部では説明問題も頻出です。60字という短さでは、目的と手段を一つずつ書けば十分です。ここでは「フランスの報復を防ぐ」(目的)と「同盟網で孤立させる」(手段)。同盟名を列挙したくなりますが、字数を食うわりに加点されにくいので省きます。短い説明問題ほど、固有名詞より構造を書くのが原則です。
次の文 a・b の正誤について、下の①〜④から正しい組み合わせを一つ選べ。
a ウィーン会議では、フランス革命以前の主権と領土を正当とする正統主義が原則とされた。
b フランクフルト国民議会はドイツ統一を実現し、プロイセン国王を皇帝に迎えて帝国を成立させた。
- a=正 b=正
- a=正 b=誤
- a=誤 b=正
- a=誤 b=誤
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a は正しい。正統主義と勢力均衡がウィーン体制の二本柱です。
b が誤り。フランクフルト国民議会は統一を実現できませんでした。下からの統一が挫折したからこそ、のちにプロイセン主導の上からの統一が実現します。「実現した」と書き換えることで、この単元の最重要の因果が丸ごと壊されています。
この設問の型。失敗した出来事を成功したことにする型です。世界史では「試みられたが挫折した」事象が数多くあり、そこが狙われます。1848年の運動、フランクフルト国民議会、変法運動——いずれも挫折したことに意味があるので、結果とセットで覚えてください。
なぜ挫折が重要か。この単元の軸は「下からの統一が失敗したから、上からの統一が選ばれた」という一本の線です。bを正しいと判断してしまう受験生は、ビスマルクがなぜ必要だったのかを説明できません。論述でも同じところが問われます。
ウィーン体制が成立してから崩壊するまでの過程を、240字程度で説明せよ。
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ナポレオン戦争後のウィーン会議は、革命前の主権と領土を正当とする正統主義と、大国間の勢力均衡を原則として秩序を再建し、自由主義と民族運動を抑圧した。しかし革命とナポレオンの征服を通じて広まったこれらの理念は各地で運動となり、ラテンアメリカやギリシアの独立を招く。フランスで七月革命が起こるとベルギーが独立し、さらに二月革命の波がウィーンに及んでメッテルニヒが失脚した。こうして体制は崩壊し、各地で自由主義と民族運動が噴出する年を迎えた。
枠組みの作り方。指定語句がないので、設問文の「成立してから崩壊するまでの過程」から3点を立てます。①成立時の原則(正統主義と勢力均衡)②動揺の連鎖(ラテンアメリカ・ギリシア・七月革命)③決定的な崩壊(二月革命とメッテルニヒ失脚)。
採点者が探しているもの。核心は「抑圧した対象が、体制を崩した」という構造です。原則の説明と崩壊の経緯を並べるだけでは足りません。自由主義と民族主義を封じるために作った体制が、まさにその力に倒された——この一文があるかどうかで評価が変わります。
よくある失点。崩壊の経緯を年表のように列挙すること。240字は列挙には足りません。七月革命と二月革命の到達点の違い(前者はベルギー独立まで、後者は体制崩壊まで)を示せば、個々の事件を並べなくても過程が伝わります。
この単元が狙われる理由。明治政経・経営は政治外交史が出題分野で、近世以降からの出題が多いとされます。ウィーン体制は会議による秩序形成という外交史の典型例です。
※ 掲載している例題は、各大学の出題形式に合わせて日本世界史塾が作成したオリジナル問題です。実際の入試問題の転載ではありません。実際の過去問は、各大学が公表しているものや市販の過去問集でご確認ください。
通史を順番に読む
帝国主義は、国民国家が工業力と国民の支持を手にしたあとで外へ向かう段階です。国内をまとめる力が、そのまま対外進出の力に変わります。
選べる用語と、
書ける用語は違います。
記述問題で落とす受験生は、選択問題では正解できています。
体験授業では、実際に書いていただいて、その差を可視化します。
入塾を前提としたしつこい勧誘は一切行いません。