イタリア統一とは?カヴールとガリバルディの役割分担

イタリア統一とは?カヴールとガリバルディの役割分担
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イタリア統一は、外交のカヴールと軍事のガリバルディという2人の役割分担で理解すると一気に整理されます。しかもドイツ統一と同時期に進んだため、比較して問われることが非常に多い。この記事では、統一の過程と、統一後に残った問題までを一本でつなぎます。

統一前のイタリア — なぜ分裂していたのか

一言でいうと19世紀半ばまで、イタリア半島は複数の国に分裂していた。ウィーン体制のもとでオーストリアが北部を支配し、中部には教皇領、南部には両シチリア王国があった。統一はサルデーニャ王国を軸に進む。
地域 支配 統一の障害
北部(ロンバルディア・ヴェネツィア) オーストリア 大国の直接支配
中部 教皇領 教皇の世俗的支配とカトリック諸国の支持
南部 両シチリア王国 ブルボン家の支配
北西部 サルデーニャ王国 統一の中心となる

統一運動を担ったのは、当初はカルボナリ(秘密結社)やマッツィーニ「青年イタリア」でした。しかし1848年の運動が失敗し、下からの統一は挫折します。

1848年の意味「下からの統一が失敗し、上からの統一へ移った」という構図は、ドイツとまったく同じです。イタリアではサルデーニャ王国が、ドイツではプロイセンがその役割を担いました。この対応関係を押さえてください。

カヴールの外交 — 大国を味方につける

サルデーニャ王国の首相カヴールは、自国だけではオーストリアに勝てないという現実から出発しました。だから彼の方針は一貫して「大国を味方につける」ことです。

  1. クリミア戦争に参戦(1855年)— 直接の利害はなかったが、英仏に恩を売り、国際的な発言力を得るために参戦した。
  2. ナポレオン3世と密約(プロンビエールの密約)— サヴォイアとニースの割譲を条件に、フランスの支援を取り付けた。
  3. イタリア統一戦争(1859年)— オーストリアと戦い、ロンバルディアを獲得。ただしナポレオン3世が単独で講和したためヴェネツィアは得られなかった。
  4. 中部イタリアの諸国が住民投票でサルデーニャへの併合を決定した。
クリミア戦争参戦の意味「なぜイタリアが黒海の戦争に?」と疑問に思うところですが、これは純粋に外交的な投資でした。大国の会議に出席する資格を得るためです。「小国が大国を利用する」という視点は、論述で書けると評価されます。
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ガリバルディの軍事 — 南から北へ

  1. 1860年、ガリバルディが義勇軍「千人隊(赤シャツ隊)」を率いてシチリアへ上陸。
  2. 両シチリア王国を征服し、南イタリアを制圧した。
  3. ガリバルディは共和主義者だったが、獲得した領土をサルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上した。
  4. この決断により、南北の分裂を避けて統一が実現した。
ガリバルディの献上が決定的共和主義者だった彼が王政のもとでの統一を受け入れたことで、南北が分裂せずに済みました。「自らの理想より統一を優先した」という判断は、論述でも語られる名場面です。

1861年、イタリア王国が成立し、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が国王となりました。ただしこの時点では、まだ統一は完成していません。

統一の完成 — 他国の戦争を利用する

残されたヴェネツィア教皇領は、いずれも他国の戦争を利用して獲得されました。

獲得地 きっかけ
ヴェネツィア 1866 普墺戦争でプロイセン側について参戦し、オーストリアから獲得
教皇領(ローマ) 1870 普仏戦争で教皇を保護していたフランス軍が撤退し、占領

つまりイタリア統一はドイツ統一に「相乗り」する形で完成しました。ビスマルクの戦争が、そのままイタリアの領土獲得の機会になったのです。2つの統一が連動していたという点は、比較論述で必ず触れるべきポイントです。

「未回収のイタリア」統一後も、南チロルトリエステなどイタリア語系住民の多い地域がオーストリア領のまま残りました。これを「未回収のイタリア」と呼びます。第一次世界大戦でイタリアが三国同盟を離れて連合国側で参戦した動機は、まさにこの領土問題です。

ドイツ統一との比較と、統一後の課題

イタリア ドイツ
中心となった国 サルデーニャ王国 プロイセン
中心人物 カヴール(外交)+ガリバルディ(軍事) ビスマルク(外交と軍事を一手に)
下からの運動 青年イタリア(1848年に挫折) フランクフルト国民議会(1848年に挫折)
障害となった大国 オーストリア オーストリアとフランス
完成 1870年(ローマ占領) 1871年(ドイツ帝国成立)
残った問題 未回収のイタリア、南北の経済格差 アルザス・ロレーヌをめぐる仏との対立

統一後に残った課題

  • 南北の経済格差 — 工業が発達した北部と、農業中心で貧しい南部。現在まで続く問題
  • 教皇との対立 — 教皇領を奪ったため、教皇はバチカンに閉じこもり「バチカンの囚人」と自称した(ラテラノ条約で解決するのは1929年)
  • 未回収のイタリア — 第一次世界大戦の参戦動機となる
  • 国民統合の弱さ — 「イタリアは作られた。次はイタリア人を作らねばならない」と言われた
論述での使いどころ「国家は作られたが、国民はまだ作られていなかった」——この一文は、イタリアだけでなく多くの新興国民国家に共通する課題です。ドイツの文化闘争、日本の国民教育とも比較できます。「国民国家はどう作られるか」というテーマで、東大・一橋の論述に使えます。
この記事の一問一答(確認テスト)
Q1. イタリア統一の中心となった王国は。
A. サルデーニャ王国
Q2. 外交を担った人物と軍事を担った人物をそれぞれ答えよ。
A. カヴールとガリバルディ
Q3. カヴールがクリミア戦争に参戦した目的は。
A. 英仏に恩を売り、国際的な発言力を得るため
Q4. ガリバルディが率いた義勇軍の名称と、征服した国は。
A. 千人隊(赤シャツ隊)、両シチリア王国
Q5. ヴェネツィアと教皇領を獲得したきっかけとなった戦争をそれぞれ答えよ。
A. 普墺戦争と普仏戦争
Q6. 統一後もオーストリア領に残ったイタリア語系地域を何というか。
A. 未回収のイタリア

よくある質問

カヴールとガリバルディの違いは何ですか?
カヴールは外交(大国を味方につける)、ガリバルディは軍事(千人隊で南部を征服)です。役割分担で覚えると混同しません。
なぜイタリアはクリミア戦争に参戦したのですか?
直接の利害はなく、英仏に恩を売って国際的な発言力を得るための外交的な投資でした。小国が大国を利用する典型例です。
ガリバルディはなぜ征服地を王に渡したのですか?
彼は共和主義者でしたが、南北の分裂を避けて統一を実現することを優先しました。「自らの理想より統一を優先した」判断として語られます。
ドイツ統一とどう比較しますか?
1848年に下からの統一が挫折し、上からの統一へ移ったという構図が共通です。イタリアはサルデーニャ、ドイツはプロイセンが中心となり、完成もほぼ同時期(1870年と1871年)でした。
この記事について

世界史専門オンライン塾「日本世界史塾」の編集部が、入試での問われ方を基準に作成しています。当塾では次の講師が指導にあたっています。

藤原 進之介日本世界史塾 代表/株式会社数強塾 代表数強塾グループ創業者。東進最年少講師、代々木ゼミナールの日本初となる情報Ⅰ講師を務め、著書は9冊。累計2,500名以上の指導と、40名を超えるプロ講師体制を築いた。
伊藤 敏代々木ゼミナール世界史講師/数強塾グループの映像授業を担当筑波大学・同大学院修士課程修了。ダイヤモンド・オンラインで「カリスマ世界史講師が教える誰も知らない本当の世界史」を連載。「キャラクターがいて、ストーリーがある。それが歴史」を掲げ、通説を多様な視点から捉え直す授業を行う。

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