中世の外交を整理する|教皇・皇帝・カリフという3つの権威

中世の外交を整理する|教皇・皇帝・カリフという3つの権威
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中世の外交を「国どうしの交渉」として覚えようとすると、必ず行き詰まります。この時代には主権国家がなく、外交も国家間のものではなかったからです。教皇はキリスト教世界を、皇帝はローマの後継を、国王は自分の王国を代表すると主張しました。誰が誰を代表するのかが定まっていない世界の外交——この一点で、戴冠も十字軍もモンゴルへの使節もつながります。

誰が誰を代表するのか — 中世に国家間の外交が成り立たない理由

一言でいうと中世の外交とは、複数の権威が重なりあう世界で、政治のまとまりどうしが戦わずに関係を取り結んだ営みを指す。国境で区切られた国家どうしの交渉ではなく、教皇・皇帝・国王・諸侯・都市の同盟・宗教騎士団がそれぞれ独自に使者を送り、誓いを立て、取り決めを結んだ。

先に言葉の整理をします。外交も帝国主義も、近代に生まれた概念です。対等な主権をもつ国が常駐の使節を置き、国際法の枠内で交渉するという仕組みが形になるのは近世以降でした。帝国主義にいたっては19世紀後半の概念であり、工業化を終えた国が資本の投下先と原料・市場を求めて地球上を分割した、あの事態を指す言葉です。近代に作られた言葉を、断りなしに昔へ持ち帰って使えば、説明ではなく思い込みになります。この記事が中世の外交と呼ぶのは、あくまでその時代に外交の役割を果たしていた営みです。

主体 代表すると主張した範囲 用いた手段
教皇 キリスト教世界の全体 破門・聖職者の任命・公会議の招集
皇帝 ローマ帝国の後継としての普遍的な支配 戴冠・称号の授与
国王 自分の王国 婚姻・宣誓・封建的な主従
有力諸侯 自分の所領 独自に使者を送り、取り決めを結ぶ
都市の同盟 加盟した都市の商業上の利害 特権の交渉・独自の武力
宗教騎士団 信仰と、自ら獲得した領域 教皇の認可・軍事力
  1. 中世の世界には、争いを裁く上位の機関も、相手方に常に置かれる使節もなかった。
  2. 約束を支えたのは、神と聖遺物にかけて立てる宣誓という宗教的な形式であった。
  3. 宣誓を破った者に対し、教皇は破門という制裁を用いることができた。
  4. 破門された君主の家臣は、忠誠を拒む正当な口実を得る。だから破門は政治の武器になった。
  5. そのうえで、王家どうしの婚姻人質の差し出しが保証として重ねられた。
  6. 商人や都市には、特許状という文書によって権利と保護が与えられた。
  7. しかし誰が誰をどこまで拘束できるのかが不明瞭なため、同じ約束が当事者ごとに別々に読まれた。
  8. 北イタリアの諸都市はロンバルディア同盟を結んで皇帝と戦い、コンスタンツの和約で自治を認めさせた。
  9. 北方のハンザ同盟も、デンマーク王と戦って有利な条件を認めさせたとされる。
  10. つまり国王でない主体が、独立した交渉の当事者になりえた——これが中世の対外関係の出発点である。
「主権国家がない」と断ってから書き始める中世の対外関係を問われたら、最初の一文で前提を宣言してください。——『中世には、領域と住民を排他的に支配する主権国家が存在せず、教皇・皇帝・国王・諸侯・都市がそれぞれ独自に対外関係を結んだ』。この一文を置くだけで、以下に並べる事実がすべて同じ筋の上に乗ります。逆にこれを置かずに用語だけ並べると、近代の国家像を無自覚に持ち込んだ答案になり、評価が伸びません。日本世界史塾では、中世の対外関係を「代表権が定まっていない世界」として先に枠づけてから、個別の事件を入れさせています。
「中世の帝国主義」という言い方はしない帝国主義は19世紀後半に成立した概念であり、工業と資本という前提の上に立つ言葉です。十字軍や東方への移住を帝国主義と呼ぶと、それだけで枠組みの理解を疑われます。中世の外へ向かう動きは、信仰・土地・交易路の3つで説明してください。同じ理由で、中世の取り決めを近代の条約と同一視することも避けます。批准の手続きも、違反を認定する第三者もないからです。

二人の皇帝と一人の教皇 — 戴冠は誰が誰を承認する行為だったのか

  1. 8世紀、ローマ教皇はランゴバルド王国の圧迫を受け、実力のある後ろ盾を必要としていた。
  2. いっぽうフランク王国では、宮宰の家系が実権を握りながら王位を継ぐ根拠を欠いていた。
  3. 両者の必要が噛み合い、ピピンの王位が教皇によって承認された。
  4. その返礼としてピピンはラヴェンナ地方を教皇に寄進した(ピピンの寄進)。教皇領の起源とされる。
  5. 800年、教皇レオ3世カール大帝に帝冠を授けた。
  6. 西ヨーロッパにローマ皇帝の称号がよみがえったことになる。
  7. ところが当時、ローマ帝国の正統な後継者を自任する皇帝はコンスタンティノープルにすでにいた。
  8. こうして皇帝が二人いるという、中世を通じて解けない問題が生まれた。

ビザンツ側は当初この戴冠を認めませんでしたが、のちに妥協が成立し、カールの皇帝という称号は承認されたとされます。ただしローマ人の皇帝は自分たちだけであるという主張は手放していません。称号のわずかな言い回しをめぐる争いに見えますが、中身はどちらがローマの正統な後継者かという代表権の争いです。のちにオットー1世が教皇から帝冠を受け、これが神聖ローマ帝国の始まりとされます。マジャール人の侵入を退けた実力があったからこそ、教皇は彼を選びました。

場面 教皇が得たもの 相手が得たもの
ピピンの王位承認 実力ある保護者と、寄進された土地 王位を継ぐ根拠
カールの戴冠 西方の守護者 ローマ皇帝という普遍的な称号
オットーの戴冠 イタリアでの後ろ盾 ドイツ王を超える権威
その後の展開 皇帝を作る側に立とうとした 教皇を立てる側に立とうとした
  1. 皇帝は教皇に戴冠されることで権威を得たが、それは教皇が皇帝を作るという含みを伴った。
  2. 逆に教皇は、イタリアで身を守るために皇帝の軍事力を必要とした。
  3. 互いを必要としながら、どちらが上位かは最後まで決まらなかった
  4. 叙任権闘争が起こり、カノッサで皇帝が屈し、ヴォルムス協約で妥協が成立した。
  5. 14世紀初め、アナーニ事件でフランス王が教皇を捕らえ、力関係は逆転した。
  6. 教皇庁はアヴィニョンへ移され、フランス王の影響下に置かれた。
  7. やがてローマとアヴィニョンに教皇が並び立つ教会大分裂が起こった。
  8. コンスタンツ公会議で分裂は収拾されたが、キリスト教世界を代表する者は一人だという前提は傷を負った。

ここで東アジアと並べると、西ヨーロッパの特異さがはっきりします。中国では天命を受ける天子は一人であるとされ、二人の皇帝が並び立つ状態は、どちらが正統かを争う内戦の別名でした。ところが西ヨーロッパとビザンツは、互いを滅ぼすでもなく、互いを全面的に認めるでもないまま数百年並び立ちました。共存できた理由は理念ではありません。どちらにも相手を屈服させる力がなかったからです。

戴冠を「権威づけ」の一語で片づけない『教皇がカールに帝冠を授けた』とだけ書くと、半分しか書けていません。——『この戴冠により、教皇は西方に軍事的な保護者を得て、カールはローマ皇帝という普遍的な称号を得た。同時に、コンスタンティノープルの皇帝と並ぶ二人目の皇帝が生まれ、東西の対立が制度として固定された』。ここまで書けて論述は完成します。誰が誰に何を与え、その結果どんな新しい問題が生まれたか——この三段で書く癖をつけてください。
神聖ローマ帝国の始まりを取り違えない神聖ローマ帝国の始まりは、通常オットー1世の戴冠(962年)とされます。カールの戴冠(800年)はその先例にあたる出来事です。カールの帝国は孫の代に分割され(ヴェルダン条約・メルセン条約)、東フランク・西フランク・イタリアのもとになりました。「カールの戴冠によって神聖ローマ帝国が成立した」と書くと誤りです。800年と962年を、別々の意味を持つ2つの戴冠として区別してください。
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十字軍 — 宗教の名で集まった軍は、誰の代表でもなかった

  1. 11世紀、セルジューク朝が小アジアへ進出し、ビザンツ帝国は多くの領土を失った。
  2. ビザンツ皇帝アレクシオス1世は、西方に援軍を求めた。
  3. 求められていたのは、皇帝の指揮下で戦う傭兵に近い部隊であったとされる。
  4. ところが教皇ウルバヌス2世は、クレルモン宗教会議で聖地の回復を広く呼びかけた。
  5. 集まったのは各地の諸侯とその従者であり、全体を束ねる指揮系統を持たなかった。
  6. 第1回十字軍はイェルサレムを占領し、現地に十字軍国家を建てた。
  7. その領土はビザンツ皇帝にも教皇にも引き渡されず、諸侯自身のものとなった。
  8. つまり要請した側の望みと、到来した軍の目的は、最初から食い違っていた
場面 掲げられた名目 実際に起きたこと
第1回 聖地の回復 諸侯がそれぞれ自分の領地を獲得
第4回 聖地への遠征 ヴェネツィアの意向でコンスタンティノープルを占領しラテン帝国を建てた
フリードリヒ2世の遠征 聖地の回復 破門された皇帝が交渉で聖地を一時回復した
東西教会の合同の試み 信仰の一致 皇帝が援軍を得るための取引で、国内には定着せず

第4回十字軍を呼びかけたのはインノケンティウス3世でしたが、輸送を請け負ったヴェネツィアの思惑が働き、軍は同じキリスト教圏の首都を攻め落としました。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世にいたっては、教皇から破門された状態のまま遠征し、アイユーブ朝のスルタンとの交渉によって聖地を一時的に回復しています。名目の上では信仰のための行動が、実際には参加者それぞれの計算で動いた——十字軍の性格はこの落差に尽きます。

  1. ビザンツ帝国は、しばしば軍事力で押し切れない局面に置かれた。
  2. そこで発達したのが、戦わずに済ませるための手段である。
  3. 周辺の君主に宮廷の称号や年金を与え、皇帝を頂点とする序列の中に位置づけた。
  4. 皇帝一族との婚姻によって関係を固めた。
  5. ギリシア正教の布教を通じて、信仰と文字の面から影響力を広げた。
  6. スラヴ人への布教は、のちにルーシの君主が正教を受け入れることにもつながったとされる。
  7. 敵対する勢力どうしを争わせることで、正面からの衝突を避けた。
  8. イスラーム勢力とのあいだでも、休戦や捕虜の交換が繰り返されたとされる。
  9. しかし十字軍は、この繊細な仕組みの外側から来た。第4回で首都を奪われたことが、その象徴である。
「弱い側の外交」という型で読むビザンツ帝国は、力で押せないときに贈与・称号・婚姻・布教を用いました。同じ型は東アジアにもあります——宋は遼と澶淵の盟を結び、毎年多額の銀と絹を贈ることで北方との平和を保ちました戦費を積むより歳幣を払うほうが安いという計算です。『軍事的に劣る側は、財と儀礼によって平和を買う。それは屈服ではなく費用の比較にもとづく選択である』——この見方を持てば、ビザンツも宋も「弱かったから衰えた」という乱暴な図式から抜け出せます。
「十字軍は教皇の軍隊」と書かない教皇は呼びかけた側であって、軍を指揮した側ではありません。参加した諸侯はそれぞれの動機を持ち、獲得した土地を自分のものにしました。統一した指揮も、参加者を拘束する取り決めもなかったからこそ、第4回のように目的地そのものが変わることさえ起きたのです。「教皇が十字軍を派遣した」という書き方は、近代の国家が軍を派遣する像を持ち込んでいます。

西の外にあった三つの答え — カリフ、ハン、そして冊封

  1. イスラームの共同体では、カリフがムハンマドの後継者として共同体全体を代表するとされた。
  2. ところが10世紀には、アッバース朝・ファーティマ朝・後ウマイヤ朝の三者がそれぞれカリフを称した。
  3. 誰が全ムスリムを代表するのかが割れたのである。
  4. さらにブワイフ朝がバグダードに入って実権を握り、カリフから大アミールの地位を認められた。
  5. セルジューク朝の君主はカリフからスルタンの称号を与えられ、支配の正しさを裏づけた。
  6. つまりイスラーム世界では、権威(カリフ)と実権(スルタン)が分かれ、実力者のほうが権威に承認を求めた
  7. 西欧で教皇と皇帝が互いを廃そうとして争ったのに対し、ここでは実力者がカリフの位そのものを奪おうとはせず、その承認を得る側に回った
  1. 13世紀、モンゴルの征西により、ヨーロッパは直接の脅威にさらされた。
  2. ワールシュタットの戦いののち、西欧は相手の正体を知る必要に迫られた。
  3. 教皇はプラノ=カルピニを送り、使節はモンゴルの宮廷に達した。
  4. フランス王ルイ9世ルブルックを送り、使節はカラコルムに達した。
  5. 西欧側の目的は、攻撃をやめさせること、イスラーム勢力に対する連携、そして布教であった。
  6. しかしモンゴル側の返答は、服属を求めるものであったとされる。
  7. モンゴルには、天の命令によって世界を治めるのは大ハンであるという前提があったとされる。
  8. 対等な交渉という発想そのものが、双方で共有されていなかった

のちにイル=ハン国とヨーロッパの君主のあいだでは、マムルーク朝に対抗する連携が模索されたとされます。しかし距離の遠さに加え、西欧側では誰が全体を代表して約束できるのかが定まらなかったため、共同の軍事行動には結びつかなかったとされます。使者が往復した事実と、外交関係が成り立った事実は別ものです。

  1. 東アジアでは、周辺国の首長が中国の皇帝からなどの称号を受け、貢物を献じた。
  2. この秩序のもとでは、使者は対等な国の代表ではなく、臣下として参上する者として扱われた。
  3. 日本は遣唐使を送ったが、唐から王の称号を受ける関係には入らなかったとされる。
  4. 明は海禁をとり、公的な交易を朝貢に一本化した。
  5. 足利義満は明から日本国王に封じられ、勘合を用いる貿易が行われた。
  6. これは誰が日本を代表するのかを、中国の皇帝の側が決めたことを意味する。
  7. そのためこの称号は、のちに国内で批判の的になったとされる。
  8. 代表の資格が外から与えられる——冊封のもとでの東アジアの特徴はここにある。
秩序 頂点 代表はどこから来るか 対等な交渉の余地
西ヨーロッパ 教皇と皇帝が並立 戴冠・叙任・宣誓 上下が定まらず、その都度争われた
ビザンツ帝国 皇帝 宮廷の称号と年金 形式は序列、実質は取引
イスラーム世界 カリフ スルタンなどの称号の授与 実力者が権威に承認を求めた
モンゴル帝国 大ハン 服属するか、しないか 対等という選択肢がなかった
東アジア 中国の皇帝 冊封による称号 形式は上下、内政は自立

中世の使節は、用件が生じるたびに送られ、済めば帰る臨時のものでした。相手のもとに常に置かれる使節、すなわち常駐の大使が現れるのは、15世紀のイタリア諸都市であるとされます。互いを滅ぼしきれない複数の勢力が狭い半島で並び立ち、相手の動きを絶えず知る必要があったからです。この仕組みがアルプスを越えて広がり、三十年戦争ののちの取り決めとあわせて、主権国家どうしの外交として定着しました。中世の曖昧さが、そのまま近代の制度を準備したという向きで押さえてください。

三つの権威を並べてから、違いを書く『中世の世界には、キリスト教圏の教皇と皇帝、イスラーム圏のカリフ、東アジアの中国皇帝という三つの普遍的な権威があり、いずれも自らを唯一の中心と見なしたため、互いのあいだに対等な外交は成り立たなかった』——テーマ史の論述はこの一文から始めます。そのうえで違いを書きます。西欧だけは、権威と権力の双方が複数に割れていました。だから境界を定める文書と手続きが必要になり、それが近代の外交の下地になった——この筋で締めると、中世から近世への橋がかかります。
使節の往来を「外交関係の成立」と書かない西欧側の記録では交渉のための使節ですが、モンゴル側の返答は服属の要求であったとされます。同じすれ違いは、はるか後のマカートニーの派遣でも起きました。18世紀末の清は、イギリスの要求を朝貢の枠内でしか受け止めていません。双方が同じ枠組みを共有していなければ、使節は行き来しても通じ合わない——時代と地域を越えて繰り返される構図です。

入試で狙われるポイント総覧

  • 中世に主権国家はなく、教皇・皇帝・国王・諸侯・都市の同盟・宗教騎士団がそれぞれ対外関係を結んだ
  • ピピンの寄進ラヴェンナ地方)が教皇領の起源とされ、カールの戴冠(800年、レオ3世)で皇帝が二人並び立つ問題が生じた。神聖ローマ帝国の始まりはオットー1世の戴冠(962年)
  • 教皇と皇帝は相互依存しつつ争った=カノッサ → ヴォルムス協約 → アナーニ事件 → アヴィニョン → 教会大分裂 → コンスタンツ公会議
  • 十字軍の発端=セルジューク朝の進出アレクシオス1世の援軍要請ウルバヌス2世クレルモン宗教会議
  • 第4回十字軍ヴェネツィアの意向でコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建てた
  • フリードリヒ2世は破門されたまま遠征し、アイユーブ朝のスルタンとの交渉で聖地を一時回復した
  • イスラーム=三者がカリフを称した並立ブワイフ朝の大アミールセルジューク朝のスルタン。権威と実権の分離
  • モンゴル=プラノ=カルピニ(教皇の使節)・ルブルック(フランス王ルイ9世の使節)。返答は服属の要求とされる
  • 東アジア=冊封足利義満日本国王に封じられ、勘合を用いる貿易が行われた
共通テストでの出方「カールの戴冠によって神聖ローマ帝国が成立した」は誤り(始まりはオットー1世の戴冠とされる)。「第4回十字軍はイェルサレムを回復した」も誤り(コンスタンティノープルを占領しラテン帝国を建てた)。「プラノ=カルピニの派遣により、教皇とモンゴルのあいだに同盟が成立した」も誤り(返答は服属の要求とされる)。掲げた名目と、実際の結果のずれを突く選択肢が、この単元の定番です。
この記事の一問一答(確認テスト)
Q1. ピピンが教皇に寄進した地方と、それによって生まれたものを答えよ。
A. ラヴェンナ地方、教皇領
Q2. カールの戴冠が東西のあいだに生んだ問題を答えよ。
A. ローマ帝国の後継を称する皇帝が二人並び立つことになった
Q3. 神聖ローマ帝国の始まりとされる出来事を答えよ。
A. 962年のオットー1世の戴冠
Q4. 第4回十字軍の結果を答えよ。
A. コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建てた
Q5. セルジューク朝の君主がカリフから与えられた称号を答えよ。
A. スルタン
Q6. 教皇とフランス王がモンゴルへ送った使節を、それぞれ答えよ。
A. 教皇はプラノ=カルピニ、フランス王ルイ9世はルブルック

よくある質問

中世に外交はあったのですか?
国家どうしの外交はありません。主権国家という単位が存在しないためです。関係を結んだのは教皇・皇帝・国王・諸侯・都市であり、誰がどこまでを代表するのかが定まっていませんでした。この記事で扱うのは、その役割を果たしていた営みです。
なぜ皇帝が二人もいたのですか?
教皇がカールに帝冠を授けた時点で、コンスタンティノープルにも皇帝がいたからです。どちらもローマ帝国の後継を主張しましたが、互いを屈服させる力がなかったため、認め合わないまま数百年並び立ちました。天子は一人とされた中国と対照的です。
十字軍は教皇が指揮したのですか?
していません。教皇は呼びかけた側で、実際に動いたのは各地の諸侯とその従者です。統一した指揮も参加者を縛る取り決めもなかったため、獲得した土地は諸侯のものになり、第4回では目的地そのものが変わりました。
モンゴルへの使節に成果はあったのですか?
同盟という意味ではありません。西欧側は攻撃の停止と連携、布教を求めましたが、返答は服属の要求であったとされます。対等な交渉という前提が共有されていなかったためです。ただし東方の情報がもたらされた意義は大きいと評価されています。
この記事について

世界史専門オンライン塾「日本世界史塾」の編集部が、入試での問われ方を基準に作成しています。当塾では次の講師が指導にあたっています。

藤原 進之介日本世界史塾 代表/株式会社数強塾 代表数強塾グループ創業者。東進最年少講師、代々木ゼミナールの日本初となる情報Ⅰ講師を務め、著書は9冊。累計2,500名以上の指導と、40名を超えるプロ講師体制を築いた。
伊藤 敏代々木ゼミナール世界史講師/数強塾グループの映像授業を担当筑波大学・同大学院修士課程修了。ダイヤモンド・オンラインで「カリスマ世界史講師が教える誰も知らない本当の世界史」を連載。「キャラクターがいて、ストーリーがある。それが歴史」を掲げ、通説を多様な視点から捉え直す授業を行う。

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