近世の革命を整理する|イギリス革命が示した2つの道

近世の革命と一括りにされますが、当時の当事者たちは体制の転覆ではなく古来の権利の回復を掲げて戦いました。オランダ・イギリス・フランスを並べると、ひとつの傾向が浮かびます——変革が徹底しているほど反動は強く、政体は落ち着かない。妥協した革命こそが長く残った。この逆説を軸に、17世紀のイギリスを中心として整理します。
「革命」という言葉を近世に当てはめるときの注意
そもそも革命という語は、もともと天体が一周してもとの位置に戻ることを指す語から転用されたとされます。体制を根本から作り替えるという現在の語感が定着したのはフランス革命以降とされ、近世の当事者はむしろ踏みにじられた古い権利をもとに戻すと主張していました。無理に近代の物差しを当てず、主権の所在をめぐる争いとして扱うのが安全です。
- 近世の君主は官僚制と常備軍を抱え、恒常的な収入を必要とした。
- 収入を増やす最短の道は課税だが、多くの地域では身分制議会や都市の同意が慣行として求められた。
- 君主がその手続きを省こうとすると、特権を持つ側は新しい権利の要求ではなく古い権利の侵害だと訴えた。
- そこへ宗教改革後の信仰の対立が重なると、金銭では折り合えない争点になった。
- 武力衝突に至ったとき、君主を排除するか、条件をつけて残すかで道が二つに分かれた。
- 排除した場合、秩序を担える主体が内戦に勝った軍しか残らず、軍事独裁へ傾きやすかった。
- 条件をつけて残した場合、見た目の変化は乏しいが、旧来の支配層まで含む広い支持を得て長持ちした。
オランダ独立戦争 — 支配者ではなく主権者を取り替えた
- スペイン領ネーデルラントは、毛織物と中継貿易によって王室の重要な財源となっていた。
- フェリペ2世は戦費を賄うため新税を課そうとし、都市が持つ同意の手続きを軽んじた(経済的な原因)。
- カルヴァン派(ゴイセン)への異端審問が強められ、信仰の問題が政治の問題へ転化した(宗教的な原因)。
- 各州・各都市の特権と自治が、中央から送られた統治者によって踏み越えられた(政治的な原因)。
- オラニエ公ウィレムを中心に蜂起が広がったが、カトリックが多い南部10州は途中で離脱した。
- 北部7州はユトレヒト同盟を結んで抗戦を続け、1581年にフェリペ2世の統治権を否認した。
- 王を戴かない連邦共和政が成立し、のちにウェストファリア条約で国際的に承認された。
| オランダ | イギリスの共和政 | |
|---|---|---|
| 王のいない統治の器 | 州議会と都市の自治機関が先にあった | 国政を担う機関が手探りだった |
| 主導した層 | 商業都市の有力者 | 軍とその指導者 |
| 軍の位置 | 州の統制下に置かれた | 軍が議会を左右した |
| 宗教のあつかい | 比較的寛容 | 厳格な規律を求めたとされる |
| 存続した長さ | 2世紀にわたり存続 | 11年で王政復古 |
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ピューリタン革命 — 王を消したら軍だけが残った
- ジェームズ1世が王権神授説を掲げ、議会の同意を軽んじた。
- チャールズ1世も議会抜きの徴収を続け、議会は権利の請願を突きつけた。
- 王はこれを受け入れながら翌年には議会を解散し、11年間議会を開かずに統治した。
- スコットランドの反乱で戦費が要り、やむなく議会を再開したが交渉は決裂し、内戦になった。
- クロムウェルの鉄騎隊を核とするニューモデル軍が王党派を破った。
- 勝った議会派は一枚岩ではなく、長老派・独立派・水平派に割れた。
- 独立派のクロムウェルは長老派を議会から締め出し、1649年に国王を処刑して共和政とした。
- さらに水平派を抑え、アイルランドを征服し、護国卿として軍を背景に統治した。
なぜ共和政が独裁になったのか。国王という調停役を取り除いた結果、正統性を主張できるのは内戦に勝った軍だけになったからです。議会は分裂し、王党派は敗れ、決着をつける手段は武力しか残っていませんでした。クロムウェルの死後、後を継いだ息子が軍を統制できなかったことで、議会は王を呼び戻すほうが確実だと判断します。1660年の王政復古は、王権への支持というより秩序への需要が選ばせた結果でした。
名誉革命が定着した理由 — 決めなかったことの効用
- 王政復古後のチャールズ2世がカトリックに好意的な姿勢を見せ、議会は審査法で公職を国教徒に限った。
- さらに人身保護法で不当な拘禁を防ぎ、王権への歯止めを制度として積み上げた。
- 王位継承をめぐる論争から、王権を支持するトーリと議会の権利を重んじるホイッグが生まれた。
- ジェームズ2世のもとでカトリックの王が続く見通しが強まると、両派は対立を棚上げして手を結んだ。
- 1688年、オランダ総督ウィレムとその妻メアリが招かれ、ジェームズ2世は戦わずに国外へ去った。
- 議会は権利の宣言を差し出し、それを認めることを条件に王位を与えた。
- 宣言は権利の章典として法となり、課税・法律の停止・平時の常備軍の維持に議会の承認を必要とした。
- 王位継承法によってカトリック教徒が王位から除かれ、のちにハノーヴァー朝を迎えることになった。
- 国王が政治の細部に関わりにくくなるなかで、ウォルポールのもとに内閣が議会の多数派に支えられる慣行が固まった。
フランスと比べる — 徹底度と安定は反比例する
| 比較する点 | イギリス | フランス |
|---|---|---|
| 王朝のあつかい | 王位は残し条件をつけた | 王政も身分制も廃止 |
| 旧来の支配層 | 地主貴族が議会に残った | 亡命または排除された |
| 直後の政体 | 立憲君主政 | 共和政 → 独裁 → 帝政と交替 |
| その後1世紀の政体 | 同じ枠組みが機能し続けた | 約80年にわたり交代が続いた |
| 参政権 | 長く狭いまま | 早い時期に男性普通選挙を経験 |
入試で狙われるポイント総覧
- 革命という語感はフランス革命以降のもの。近世の当事者は古い権利の回復を掲げた
- オランダ独立の原因=新税・カルヴァン派への異端審問・都市と州の自治の侵害
- 南部10州は離脱、北部7州がユトレヒト同盟。指導者はオラニエ公ウィレム
- 議会派の3潮流=長老派・独立派・水平派。クロムウェルは独立派
- 権利の請願(1628)→ 内戦 → 国王処刑(1649)→ 護国卿 → 王政復古(1660)
- 王政復古のあとも議会の同意なしに課税する仕組みは戻らなかった
- 審査法・人身保護法、党派の起源はトーリとホイッグ
- 権利の章典=課税・法律の停止・平時の常備軍に議会の承認が必要
- 王位継承法 → ハノーヴァー朝 → ウォルポールの責任内閣制。ただし民主化は19世紀
- Q1. 近世の革命で、抵抗する側が用いた正当化の論理を答えよ。
- A. 新しい権利の創設ではなく、古来の権利の回復
- Q2. オランダ独立戦争で北部7州が結んだ同盟と、指導者を答えよ。
- A. ユトレヒト同盟、オラニエ公ウィレム
- Q3. ピューリタン革命期に議会派が分かれた3つの潮流を答えよ。
- A. 長老派・独立派・水平派
- Q4. クロムウェルが共和政期に就いた最高の地位の名称は。
- A. 護国卿
- Q5. 権利の章典が議会の承認を必要とした事項を3つ答えよ。
- A. 課税、法律の停止、平時の常備軍の維持
- Q6. 内閣が議会の多数派に支えられる慣行を固めた人物と、当時の王朝を答えよ。
- A. ウォルポール、ハノーヴァー朝
よくある質問
- なぜイギリスの共和政は続かなかったのですか?
- 王を排除したあと、統治を担える器が用意されていなかったためです。議会は分裂し、正統性を主張できるのは内戦に勝った軍だけでした。結果として軍事独裁となり、指導者の死後は王を呼び戻すほかなくなりました。
- 名誉革命が無血で済んだのはなぜですか?
- 双方が内戦と国王処刑という代償を知っていたからです。議会は王位そのものを否定せず条件をつける形をとり、トーリとホイッグが対立を棚上げして協力しました。ただし無血といえるのはイングランド国内に限った話で、ウィレムは軍を率いて上陸しており、スコットランドとアイルランドでは戦闘が起きています。
- 革命が徹底したほど不安定になるというのは本当ですか?
- 法則ではなく傾向です。理由まで書く必要があります。旧来の支配層を体制の内側に残せば支持の幅が広がって長持ちし、排除すれば復権を狙う勢力が生まれて政体が揺れやすい、という因果で説明してください。
- 名誉革命で民主主義が成立したと書いてよいですか?
- 誤りです。確立したのは議会主権であって、選挙権は一定の資産を持つ男性に限られていました。議会は地主層の代表機関であり、参政権の拡大は19世紀の選挙法改正から始まります。
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