ウィーン体制とは?正統主義と勢力均衡、そして崩壊まで

ウィーン体制とは?正統主義と勢力均衡、そして崩壊まで
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ウィーン体制は、ナポレオン戦争後のヨーロッパを再建するために作られた国際秩序です。入試の中心は「何を封じ込めようとして、なぜ失敗したのか」。答えは明快で、ナポレオンが広めた自由主義とナショナリズムを押さえつけようとして、押さえきれなかったのです。33年間の攻防を一本で整理します。

ウィーン体制とは(成立と2つの原則)

一言でいうと1814〜15年のウィーン会議で成立した、ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序。オーストリア外相メッテルニヒが主導し、正統主義勢力均衡を原則とした。1848年の二月革命で崩壊する。
原則 内容 ねらい
正統主義 フランス革命前の王朝と国境を正当とし、これを回復する(タレーランが提唱) 革命の成果を否定し、旧体制を復活させる
勢力均衡 一国が突出しないよう領土を配分する フランスの再興と、他国の突出を防ぐ

会議は「会議は踊る、されど進まず」と評されるほど各国の利害が対立しましたが、ナポレオンの百日天下が各国をまとめ、ウィーン議定書が成立しました。

  • ドイツ連邦が成立(35の君主国と4自由市。統一国家ではない)
  • オーストリアがロンバルディア・ヴェネツィアを獲得
  • スイスの永世中立が承認される
  • イギリスがケープ植民地・セイロン島を獲得(海外での優位を確立)
  • 神聖同盟(ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱)と四国同盟(のちフランスが加わり五国同盟)が体制を支えた
イギリスの立ち位置イギリスは大陸の領土ではなく海外の拠点を獲得しました。大陸で勢力均衡を保ちつつ、自国は海洋と植民地で優位に立つ——この「光栄ある孤立」につながる姿勢は、19世紀を通じたイギリス外交の基調です。

何を封じ込めようとしたのか

ウィーン体制が抑え込もうとしたのは、ナポレオンが広めた2つの理念です。

  1. 自由主義 — 憲法・議会・言論の自由を求める動き。市民層が担い手。
  2. ナショナリズム — 言語・文化・歴史を共有する集団が自らの国家を持つべきだという考え。ドイツ・イタリアの統一運動や、東欧の民族運動として現れた。

しかし、この2つはすでにヨーロッパ中に広まっていました。抑圧は各地で抵抗を生みます。

運動 地域 結果
ブルシェンシャフト ドイツ(学生組合) 自由と統一を求めるが弾圧される
カルボナリ イタリア(秘密結社) 蜂起するが鎮圧される
デカブリストの乱 ロシア(青年貴族将校) 1825年、鎮圧される
ギリシア独立戦争 バルカン 1829年に独立達成=体制の最初の穴
ラテンアメリカ諸国の独立 中南米 次々に独立を達成
なぜギリシアだけ成功したのか列強が支持したからです。ロシアは南下政策イギリスとフランスはオスマン帝国の弱体化と地中海での利権を狙い、正統主義に反してでもギリシアを支援しました。原則より国益が優先されたことが、体制の弱さを露呈させます。

ラテンアメリカの独立も同様です。イギリスが市場拡大を狙って干渉に反対し、アメリカがモンロー宣言(1823年)で相互不干渉を唱えたため、列強は介入できませんでした。シモン=ボリバルやサン=マルティンの運動が実を結びます。

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崩壊への2段階 — 七月革命と二月革命

七月革命(1830年)— 最初の決壊

復古王政のフランスでシャルル10世が反動政治を強めたことに対し、パリ市民が蜂起。ルイ=フィリップを王とする七月王政が成立しました。

  • ベルギーがオランダから独立
  • ポーランド・イタリア・ドイツで蜂起(いずれも鎮圧)
  • イギリスでは第1回選挙法改正(1832年)につながる

二月革命(1848年)— 体制の終わり

七月王政は制限選挙を維持し、銀行家など上層市民のみが政治を握っていました。選挙法改正を求める運動が弾圧されたことをきっかけに、1848年2月に革命が起こります。

  1. ルイ=フィリップが亡命し、第二共和政が成立。男性普通選挙が実現した。
  2. 革命はヨーロッパ全土に波及=「諸国民の春」
  3. ウィーンでは三月革命が起こり、メッテルニヒが失脚・亡命ウィーン体制は崩壊した。
  4. ドイツではフランクフルト国民議会が統一と憲法を議論したが失敗。
  5. ハンガリーのコシュートらの民族運動も鎮圧された。
  6. フランスでは、混乱を収拾する期待からルイ=ナポレオンが大統領に選ばれ、のちナポレオン3世として第二帝政を開いた。
1848年の意味多くの運動は失敗しましたが、「もはや旧体制では統治できない」ことが証明された点が決定的です。以後、各国は自由主義を部分的に取り込みながら、上からの改革ナショナリズムの利用によって国家を再編します。ビスマルクのドイツ統一やロシアの農奴解放は、1848年の失敗の後始末として理解できます。

入試で狙われるポイント総覧

  • 会議の主導はメッテルニヒ、正統主義の提唱はタレーラン
  • 原則は正統主義勢力均衡
  • 体制を支えたのは神聖同盟四国同盟(→五国同盟)
  • ドイツ連邦は統一国家ではない
  • ギリシア独立とラテンアメリカ独立が最初の綻び
  • 七月革命(1830)→ ベルギー独立
  • 二月革命(1848)=諸国民の春 → メッテルニヒ失脚 → 体制崩壊
共通テストでの出方「ウィーン会議でドイツが統一された」は誤り(ドイツ連邦という緩やかな連合にとどまる)。「神聖同盟はイギリスも参加した」も誤り(イギリスとローマ教皇、オスマン帝国は不参加)。同盟の参加国は細かく問われるので注意してください。日本世界史塾では、19世紀の国際秩序を1枚の年表にまとめ、革命と反動の往復として整理します。
この記事の一問一答(確認テスト)
Q1. ウィーン会議を主導したオーストリアの外相は。
A. メッテルニヒ
Q2. 正統主義を提唱したフランスの外交官は。
A. タレーラン
Q3. ウィーン体制の2つの原則を答えよ。
A. 正統主義と勢力均衡
Q4. 1830年の七月革命の結果、独立を達成した国は。
A. ベルギー
Q5. 1848年の二月革命がヨーロッパ全土に波及したことを何と呼ぶか。
A. 諸国民の春
Q6. 二月革命の波及によって失脚した人物は。
A. メッテルニヒ

よくある質問

ウィーン体制は何を目指したのですか?
フランス革命前の秩序を回復し(正統主義)、一国が突出しないよう領土を配分する(勢力均衡)ことで、ヨーロッパの安定を図りました。実質的には自由主義とナショナリズムの封じ込めです。
なぜギリシアの独立は成功したのですか?
列強が支援したからです。ロシアは南下政策、イギリスとフランスは地中海での利権を狙い、正統主義の原則に反してでもギリシアを支持しました。原則より国益が優先されたのです。
1848年の革命は失敗ですか?
多くの運動は鎮圧されましたが、旧体制では統治できないことが明らかになった点で決定的でした。以後の各国は上からの改革やナショナリズムの利用へ方針を転換します。
ドイツ連邦は統一国家ですか?
違います。35の君主国と4自由市からなる緩やかな連合で、統一国家ではありません。ドイツ統一はビスマルクによる1871年のドイツ帝国成立を待ちます。
この記事について

世界史専門オンライン塾「日本世界史塾」の編集部が、入試での問われ方を基準に作成しています。当塾では次の講師が指導にあたっています。

藤原 進之介日本世界史塾 代表/株式会社数強塾 代表数強塾グループ創業者。東進最年少講師、代々木ゼミナールの日本初となる情報Ⅰ講師を務め、著書は9冊。累計2,500名以上の指導と、40名を超えるプロ講師体制を築いた。
伊藤 敏代々木ゼミナール世界史講師/数強塾グループの映像授業を担当筑波大学・同大学院修士課程修了。ダイヤモンド・オンラインで「カリスマ世界史講師が教える誰も知らない本当の世界史」を連載。「キャラクターがいて、ストーリーがある。それが歴史」を掲げ、通説を多様な視点から捉え直す授業を行う。

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