均田制とは?なぜ生まれ、なぜ崩れたのか

均田制とは?なぜ生まれ、なぜ崩れたのか
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均田制は、国家が農民に土地を配る制度です。単独で覚えても意味がありません。均田制・租庸調・府兵制は3点セットで、均田制が崩れた瞬間に税制も兵制も連鎖的に崩れました。この連鎖こそが唐衰退の本質であり、入試で最も問われる因果です。

均田制とは(定義と3点セット)

一言でいうと北魏の孝文帝が始め、隋唐に受け継がれた、国家が農民に一定面積の土地を支給し、その見返りに租税と兵役を課す制度。土地は原則として本人の死後に国家へ返還される。
制度 内容 国家が得るもの
均田制 農民に口分田などを支給 自作農という課税対象
租庸調 租=穀物/庸=労役の代納/調=布などの特産物 財源
府兵制 均田農民が武装を自弁して交代で兵役 兵力

この3つは独立した制度ではありません。「土地を配る → だから税が取れる → だから兵も出せる」という一本の線です。したがって出発点である均田制が崩れれば、あとの2つは自動的に崩れます。

起点の王朝を間違えない均田制を始めたのは北魏の孝文帝です。「隋の文帝」「唐の太宗」と入れ替えた選択肢が頻出します。孝文帝は洛陽遷都漢化政策(鮮卑の姓・服装・言語を漢式に改める)でも問われます。

なぜ国家は土地を配ったのか

「農民思いの制度」ではありません。国家の財政と軍事の必要から生まれた制度です。

  1. 後漢末以降の戦乱で人口が激減し、耕作されない土地が大量に発生した。
  2. 同時に、豪族が土地と農民を囲い込み、国家が把握できない私的な支配が広がっていた。
  3. 国家にとっては、豪族に隠された農民は税も兵も取れない存在である。
  4. そこで、荒れ地を農民に直接支給して国家が把握する自作農を作り出した
  5. 自作農であれば戸籍で把握でき、租庸調も府兵制も機能する。

つまり均田制の本質は「豪族から農民を取り戻す」政策でした。三国時代の屯田制(魏)、西晋の占田・課田法も同じ問題意識から生まれた制度で、系譜としてつながっています。

論述での書き出し「均田制は、豪族の大土地所有を抑え、国家が直接把握する自作農を確保して租税と兵役の基盤とするために実施された」——この一文を書ければ、以降の展開が組み立てやすくなります。
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なぜ崩れたのか — 3つの原因

  1. 人口の増加 — 唐の安定期に人口が増え、支給する土地が絶対的に足りなくなった
  2. 土地の兼併 — 貴族・官僚・寺院が土地を集積し、返還されるはずの土地が私有化されていった。
  3. 農民の逃亡 — 負担に耐えられない農民が戸籍地から逃げ、国家が人を把握できなくなった

とくに3つ目が決定的です。租庸調は「人(丁男)」に課す税なので、人がどこにいるか分からなくなれば徴税できません。同じ理由で、府兵制も兵を集められなくなりました

崩れた制度 代わりに導入されたもの 何が変わったか
租庸調 両税法(780年・楊炎) 課税対象が人 → 土地と資産
府兵制 募兵制 兵農一致 → 傭兵
均田制 (放棄)大土地所有の容認 自作農 → 荘園と佃戸

この転換は単なる制度変更ではありません。「国家が土地と人を直接握る体制」から「大土地所有を前提に、土地と資産に課税する体制」への移行であり、以後の中国社会の基本形になりました。

崩壊の帰結 — 節度使と唐の衰退

府兵制が崩れて募兵制になると、辺境防衛のために節度使が置かれ、兵権が地方に集中しました。ここから唐の衰退が始まります。

  1. 節度使が軍事・財政・行政の権限を握り、半独立の勢力となる。
  2. 安史の乱(755〜763年)が起こり、唐は自力で鎮圧できずウイグルの援軍に頼った。
  3. 乱後、各地の節度使(藩鎮)が自立し、中央の統制が及ばなくなる。
  4. 財政難から両税法(780年)を導入し、さらに塩の専売で財源を確保した。
  5. 塩の密売人が指導した黄巣の乱(875〜884年)で唐は決定的に衰え、907年に滅亡する。
唐衰退の因果を一本で人口増加 → 均田制の崩壊 → 租庸調と府兵制の破綻 → 両税法と募兵制 → 節度使の自立 → 安史の乱 → 藩鎮の割拠 → 黄巣の乱 → 滅亡。この一本の鎖を書けるかどうかが、唐の論述の分かれ目です。日本世界史塾では、この鎖を白紙から書けるまで反復します。

入試で狙われるポイント総覧

  • 均田制の開始=北魏の孝文帝(隋・唐ではない)
  • 均田制・租庸調・府兵制は3点セット
  • 崩壊の原因=人口増加・土地の兼併・農民の逃亡
  • 租庸調 → 両税法(780年・楊炎)=課税対象が人から土地と資産
  • 府兵制 → 募兵制節度使の台頭を招く
  • 系譜=屯田制(魏)→ 占田・課田法(西晋)→ 均田制(北魏〜唐)
  • 日本の班田収授法は均田制の影響を受けた制度
日本史との接続日本の班田収授法(口分田の支給と6年ごとの班給)は均田制を参考にした制度で、こちらも人口増加と土地不足で崩壊し、荘園の拡大を招きました。同じ原因で同じ結末をたどったという対比は、世界史の答案でも効果的に使えます。
この記事の一問一答(確認テスト)
Q1. 均田制を最初に実施した王朝と皇帝は。
A. 北魏、孝文帝
Q2. 均田制とセットになる税制と兵制を答えよ。
A. 租庸調と府兵制
Q3. 均田制が崩れた3つの原因を答えよ。
A. 人口増加・土地の兼併・農民の逃亡
Q4. 780年に租庸調に代わって導入された税制と、実施した宰相は。
A. 両税法、楊炎
Q5. 府兵制に代わって導入された兵制と、それが招いた存在は。
A. 募兵制、節度使
Q6. 均田制の系譜となる魏と西晋の土地制度を答えよ。
A. 屯田制と占田・課田法

よくある質問

均田制は農民のための制度ですか?
違います。国家が税と兵を確保するための制度です。豪族に囲い込まれた農民を国家の把握下に取り戻すことが目的でした。
なぜ租庸調から両税法に変わったのですか?
農民が逃亡して国家が「人」を把握できなくなったためです。人に課す租庸調では徴税できないので、逃げない「土地と資産」に課税する両税法へ切り替えました。
均田制の崩壊と安史の乱はどう関係しますか?
均田制の崩壊で府兵制が成り立たなくなり、募兵制へ移行して節度使が兵権を握りました。その節度使の一人が起こしたのが安史の乱です。
日本の班田収授法との違いは何ですか?
均田制を参考にした制度ですが、日本では奴婢にも口分田が支給されるなど細部が異なります。ただし人口増加と土地不足で崩壊し荘園が拡大したという結末は共通しています。
この記事について

世界史専門オンライン塾「日本世界史塾」の編集部が、入試での問われ方を基準に作成しています。当塾では次の講師が指導にあたっています。

藤原 進之介日本世界史塾 代表/株式会社数強塾 代表数強塾グループ創業者。東進最年少講師、代々木ゼミナールの日本初となる情報Ⅰ講師を務め、著書は9冊。累計2,500名以上の指導と、40名を超えるプロ講師体制を築いた。
伊藤 敏代々木ゼミナール世界史講師/数強塾グループの映像授業を担当筑波大学・同大学院修士課程修了。ダイヤモンド・オンラインで「カリスマ世界史講師が教える誰も知らない本当の世界史」を連載。「キャラクターがいて、ストーリーがある。それが歴史」を掲げ、通説を多様な視点から捉え直す授業を行う。

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