現代の脱植民地化を整理する|独立しても残ったもの

「独立したのだから支配は終わった」——現代史でいちばん多い誤読がこれです。植民地から返ってきたのは主権と行政であって、輸出品の値段を決める権利ではありませんでした。政治的独立と経済的従属は別に動く——この一本で、二つの大戦の動員から、インドの分割、アフリカの年、非同盟までを貫きます。
「独立」を二つに割る — 旗が変わることと、値段を決めること
はじめに一つ断っておきます。現代史で「植民地」を主題にするとき、扱うのは植民地が作られる過程ではなく、解体されていく過程です。新たな植民地の建設は帝国主義の時代までの話であり、20世紀後半のテーマは「どう終わったか」と「終わったのに何が残ったか」の二点に絞られます。ここを取り違えると、時代区分ごと間違えます。
- 植民地支配を分解すると、まず外交権と軍事力が宗主国に握られる。
- 次に行政と司法が、本国から派遣された官僚と法によって運営される。
- 貿易では、売る相手と価格の決まり方が本国側に有利になるよう仕組まれる。
- 通貨と金融は本国の通貨圏に組み込まれ、決済も本国の銀行を通る。
- 土地と作物は、本国が必要とする一次産品を作るように特化させられる。
- 教育と言語では、行政と高等教育の言語が宗主国のものになる。
- 独立の宣言が直接に取り戻すのは、このうち外交権・軍事力・行政・司法までである。
- 残る貿易・通貨・作物・言語は、旗を替えただけでは動かない。ここに時間差が生まれる。
| 独立で取り戻せたもの | 独立後も残ったもの |
|---|---|
| 主権と外交権 | 輸出品の価格を決める力 |
| 自国の軍と警察 | 加工・輸送・保険・金融の担い手 |
| 行政と司法の運営 | 旧宗主国の企業と資本 |
| 国旗・国歌・国名 | 植民地時代に引かれた国境線 |
| 国際機関での議席 | 行政と教育に残る宗主国の言語 |
動員は請求書を残す — 二つの大戦が独立を早めた理由
植民地の独立を早めたのは、現地の民族意識だけではありません。宗主国の側が、二度にわたって植民地に依存せざるをえなくなったことが決定的でした。助けを借りれば、借りた分の請求書が来る——この単純な力学が働きます。
第一次世界大戦 — 貸しを作ったのに、返ってこなかった
- 総力戦は本国の人口だけでは支えきれず、植民地から兵員・労働力・食糧・原料が動員された。
- 動員に応じた側には、戦後の地位向上や自治への期待が生まれた。
- ところが講和で掲げられた民族自決が及んだのは、主として敗れた帝国の版図であった。
- 戦勝国が保有する植民地は対象外とされ、旧敵国の領域は委任統治という形式で統治が続いた。
- この落差が、運動の性格を陳情から組織的な要求へ変えた。
- 戦間期に政党・労働組合・学生団体・新聞という運動の器が各地に整った。
- 宗主国側も部分的な譲歩を行い、州レベルの自治や現地人の議員が置かれた。
- 皮肉なことに、この譲歩が現地の政治家に統治の経験を蓄積させた。
第二次世界大戦 — 今度は宗主国が力尽きた
- 再び大規模な動員が行われ、植民地は戦費と兵員の供給源となった。
- 大西洋憲章が、住民自身の意思にもとづいて政体を選ぶという原則を掲げた。
- ただし宗主国の側には、この原則を占領下のヨーロッパに限るとする解釈もあったとされる。
- 戦争は英仏の財政と軍事力を消耗させ、広大な領域を武力で維持する余力を奪った。
- 東南アジアでは日本の占領によってヨーロッパ人の行政機構と軍が一度消えた。
- その空白のあいだに、現地の行政経験者と武装組織が育っていた。
- 戦後の二つの超大国は、いずれも旧来の植民地帝国の存続を積極的には支持しなかった。ただし冷戦下では、共産主義の伸長を警戒して宗主国の側を支援した例もある。
- 国際連合の総会は一国一票であり、独立国が増えるほど数の力が働くようになった。
| 第一次大戦後 | 第二次大戦後 | |
|---|---|---|
| 自決の適用 | 敗戦帝国の版図が中心 | 植民地にも及ぶ |
| 宗主国の余力 | まだ維持できた | 維持できない |
| 運動の側 | 組織を作る段階 | 政権を担える段階 |
| 国際環境 | 委任統治で統治が継続 | 独立が国際的な規範に |
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交渉・分割・武力 — 独立のしかたが三つに分かれた
同じ脱植民地化でも、独立の入り口が違えば出口も違います。ここは型で押さえると一気に整理できます。
| 型 | おもな例 | その後に残りやすいもの |
|---|---|---|
| 交渉による権限の移譲 | ガーナ・マラヤ・フィリピン | 旧宗主国との経済関係が継続 |
| 宗教や民族で分けたうえでの独立 | インドとパキスタン | 境界と住民の移動をめぐる紛争 |
| 武力抵抗を経た独立 | インドネシア・ベトナム・アルジェリア | 軍と革命指導者が政治の中心に |
インド — 宗教を政治の単位にしてしまった代償
- 二つの大戦を通じ、戦争協力と引き換えに自治を求める交渉が繰り返された。
- 国民会議派は非暴力・不服従を掲げ、運動を都市の知識人から農村の大衆へ広げた。
- 一方で植民地行政は、宗教ごとに選挙区や代表枠を設ける方式を制度に組み込んでいた。
- その結果、信仰の違いが政治的な取り分の違いとして固定されていった。
- 全インド=ムスリム連盟を率いたジンナーは、ムスリムのための独立国家を要求した。
- 戦後のイギリスは統治を続ける余力を失い、撤退を急いだ。
- 1947年のインド独立法により、インド連邦とパキスタンが分かれて独立した。
- 境界の両側で大規模な人の移動と衝突が起き、分割に反対したガンディーは翌年に暗殺された。
- 藩王国の帰属をめぐってカシミールが係争地として残り、のち1971年には東パキスタンがバングラデシュとして分離した。
東南アジア — 宣言ではなく戦争になった理由
- 日本の敗戦によって、現地には統治の空白と、訓練を受けた武装組織が同時に生じた。
- 独立を宣言した側は、その空白を自分たちで埋めようとした。
- しかし旧宗主国は戦前の版図の回復を求めて戻ってきた。
- インドネシアではスカルノらが独立を宣言し、オランダとの戦いを経て主権の移譲を実現した。
- ベトナムではホー=チ=ミンが独立を宣言し、インドシナ戦争となった。
- ディエンビエンフーの戦いでフランスが敗れ、ジュネーヴ休戦協定が結ばれた。
- 北緯17度線が暫定的な境界とされたが統一のための選挙は行われず、分断が固定した。
- 交渉で独立したフィリピン・ビルマ・セイロンとは、独立後の政治の担い手が大きく異なった。
1960年のアフリカの年と、引き直さなかった国境
なだれのように独立した1960年
- 1957年、ガーナがエンクルマの指導のもとで独立し、以後の運動の先例となった。
- 1960年には一年で17か国が独立し、この年はアフリカの年と呼ばれる。
- 同じ年、国際連合の総会で植民地独立付与宣言が採択された。
- フランス領のうちアルジェリアだけは長期の戦争となった。多数の入植者が定住していたためである。
- この戦争はフランス本国の政治を揺るがし、第四共和政が倒れてド=ゴールが復帰する一因となった。
- 最終的に協定が結ばれ、1962年にアルジェリアの独立が実現した。
- ケニアのように、武装した抵抗と交渉の両方を経て独立した例もある。
- 南アフリカではアパルトヘイトが国内で維持され、その撤廃と全人種が参加する選挙は冷戦の終結後にずれこんだ。
なぜ植民地時代の境界を使い続けたのか
- 独立時の国境は、宗主国が行政上の都合で引いた線をほぼそのまま用いた。
- 1963年に結成されたアフリカ統一機構(OAU)は、既存の国境の尊重を原則に掲げた。
- 理由は単純である。一つでも引き直しを認めれば、分離の要求が連鎖して収拾がつかなくなると判断されたためである。
- 代償として、一つの国に複数の民族が同居し、一つの民族が複数の国に分かれる状態が固定された。
- 独立直後のコンゴでは資源の豊かな州の分離をめぐって動乱となり、国際的な介入を招いた。
- ナイジェリアでは東部の分離を掲げる勢力との内戦が起き、多数の犠牲を出した。
- つまり紛争を防ぐための原則が、別の形の紛争を残した。
- この機構は2002年にアフリカ連合(AU)へ改組された。
旗は替わったが、値段は替わらない
- 植民地期に特化させられた結果、輸出は少数の一次産品に偏っていた(モノカルチャー)。
- その価格は国際市場で決まり、変動が大きい。豊作でも値崩れすれば収入は増えない。
- 加工・輸送・保険・金融といった利益の大きい工程は旧宗主国側に残った。
- 工業化のための資金は借り入れに頼らざるをえず、1980年代には累積債務が深刻化した。
- 旧宗主国の企業・通貨・軍事協定との結びつきも、独立後に続いた例が多い。
- こうして形式的な主権はあるのに、経済の決定権が外にある状態が生じた。
- これを新植民地主義と呼ぶ。独立後の指導者自身がこの語を用いたとされる。
非同盟 — 二極の外側に立つという答え
- 1954年、ネルーと周恩来の会談で平和五原則が示された
- 1955年、インドネシアのバンドンでアジア=アフリカ会議が開かれ、平和十原則が採択された
- 1961年には非同盟諸国首脳会議が開かれ、いずれの軍事同盟にも加わらない立場が国際政治の一極となった
- 国際連合の総会では、独立国の増加によって数の上での発言力が高まった
- 1970年代には資源への主権や公正な価格を求める主張が掲げられた(新国際経済秩序の要求)
- ただし加盟国の利害は一致せず、資源を持つ国と持たない国の格差(南南問題)が表面化した
入試で狙われるポイント総覧
- 軸=主権の回復と経済の主導権の回復は別に進む。時間差そのものが主題
- 二つの大戦の動員が見返りの要求を生み、運動を組織化させた
- 第一次大戦後の民族自決は敗戦帝国の版図が中心で、戦勝国の植民地には及ばず、旧敵国の領域が委任統治とされた
- 第二次大戦後の後押し=戦時中に掲げられた大西洋憲章の原則/宗主国の疲弊/国際連合の総会は一国一票
- インド=1947年のインド独立法、ジンナーの全インド=ムスリム連盟、カシミール、1971年バングラデシュ
- 東南アジア=スカルノ、ホー=チ=ミン、ディエンビエンフーの戦い、ジュネーヴ休戦協定と北緯17度線
- アフリカ=1957年ガーナ(エンクルマ)、1960年アフリカの年(17か国)、アルジェリアの独立
- OAUは既存の国境の尊重を原則とし、のちAUへ改組。代償がコンゴの動乱・ナイジェリアの内戦
- モノカルチャーと新植民地主義、対抗が平和五原則 → アジア=アフリカ会議(平和十原則) → 非同盟諸国首脳会議
- Q1. 脱植民地化を政治と経済の二つに分けて説明せよ。
- A. 主権と行政は独立で回復したが、輸出品の価格や市場、加工・金融の担い手は外に残った
- Q2. 第一次世界大戦後、民族自決が適用された範囲を答えよ。
- A. 主として敗れた帝国の版図。戦勝国の植民地には及ばず、旧敵国の領域が委任統治とされた
- Q3. インドとパキスタンの分離独立の根拠となった法と、ムスリム連盟の指導者を答えよ。
- A. 1947年のインド独立法、ジンナー
- Q4. インドシナ戦争でフランスが敗れた戦いと、その後に結ばれた協定を答えよ。
- A. ディエンビエンフーの戦い、ジュネーヴ休戦協定
- Q5. アフリカ統一機構が独立時の国境について採った原則を答えよ。
- A. 既存の国境を尊重し、引き直さないという原則
- Q6. 1955年にバンドンで開かれた会議と、そこで採択された原則を答えよ。
- A. アジア=アフリカ会議、平和十原則
よくある質問
- 独立したのに、なぜ経済的な従属が残ったのですか?
- 独立の宣言が動かせるのは主権・軍・行政までで、生産と流通の構造は動かせないからです。輸出が少数の一次産品に偏り、価格は国際市場で決まり、加工や金融は旧宗主国側に残りました。この状態を新植民地主義と呼びます。
- インドはなぜ二つに分かれて独立したのですか?
- 植民地行政が宗教ごとに代表枠を設ける方式をとり、信仰の違いが政治的な取り分の違いとして固定されたことが大きいとされます。全インド=ムスリム連盟のジンナーが別国家を求め、1947年のインド独立法で分離独立となりました。
- なぜ植民地時代の国境をそのまま使ったのですか?
- 一つでも引き直しを認めれば分離の要求が連鎖すると判断されたためです。アフリカ統一機構は既存の国境の尊重を原則としました。ただし民族分布との不一致は残り、コンゴやナイジェリアで紛争を招いています。
- 非同盟とは、どちらにもつかないという意味ですか?
- 軍事同盟に加わらないという意味であって、沈黙や中立ではありません。植民地主義への反対と経済的な不平等の是正を積極的に主張し、国際連合の総会では独立国の増加によって発言力を高めました。
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