現代の脱植民地化を整理する|独立しても残ったもの

現代の脱植民地化を整理する|独立しても残ったもの
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「独立したのだから支配は終わった」——現代史でいちばん多い誤読がこれです。植民地から返ってきたのは主権と行政であって、輸出品の値段を決める権利ではありませんでした政治的独立と経済的従属は別に動く——この一本で、二つの大戦の動員から、インドの分割、アフリカの年、非同盟までを貫きます。

「独立」を二つに割る — 旗が変わることと、値段を決めること

一言でいうと第二次世界大戦後を中心に、植民地とされてきた地域が主権国家として独立していった過程を脱植民地化という。主権の回復経済の主導権の回復は同時には進まず、後者は独立後の長い課題として残った。

はじめに一つ断っておきます。現代史で「植民地」を主題にするとき、扱うのは植民地が作られる過程ではなく、解体されていく過程です。新たな植民地の建設は帝国主義の時代までの話であり、20世紀後半のテーマは「どう終わったか」と「終わったのに何が残ったか」の二点に絞られます。ここを取り違えると、時代区分ごと間違えます。

  1. 植民地支配を分解すると、まず外交権と軍事力が宗主国に握られる。
  2. 次に行政と司法が、本国から派遣された官僚と法によって運営される。
  3. 貿易では、売る相手と価格の決まり方が本国側に有利になるよう仕組まれる。
  4. 通貨と金融は本国の通貨圏に組み込まれ、決済も本国の銀行を通る。
  5. 土地と作物は、本国が必要とする一次産品を作るように特化させられる。
  6. 教育と言語では、行政と高等教育の言語が宗主国のものになる。
  7. 独立の宣言が直接に取り戻すのは、このうち外交権・軍事力・行政・司法までである。
  8. 残る貿易・通貨・作物・言語は、旗を替えただけでは動かない。ここに時間差が生まれる。
独立で取り戻せたもの 独立後も残ったもの
主権と外交権 輸出品の価格を決める力
自国の軍と警察 加工・輸送・保険・金融の担い手
行政と司法の運営 旧宗主国の企業と資本
国旗・国歌・国名 植民地時代に引かれた国境線
国際機関での議席 行政と教育に残る宗主国の言語
独立の年号を並べる答案は評価されない脱植民地化の設問で問われるのは、年表ではなく「何が変わって、何が変わらなかったか」です。答案の骨は「主権は移ったが、生産と流通の構造は移らなかった」の一文で足ります。ここに具体例——単一の一次産品への依存、旧宗主国資本の残存、植民地時代の境界線——を三つ足せば、それだけで論述の一段落になります。日本世界史塾では、独立の年号より先にこの一文を覚えてもらいます。
「独立=支配の終わり」と書かない政治的独立の達成と、経済的な自立の達成を同じ文でつなぐと減点されます。両者は数十年ずれることがあり、そのずれ自体が現代史の主題です。逆に「独立は無意味だった」と書くのも誤り——国際機関での議席と発言権を得たことが、のちの数の力につながりました。「不十分だが決定的」という評価の幅を持って書いてください。

動員は請求書を残す — 二つの大戦が独立を早めた理由

植民地の独立を早めたのは、現地の民族意識だけではありません。宗主国の側が、二度にわたって植民地に依存せざるをえなくなったことが決定的でした。助けを借りれば、借りた分の請求書が来る——この単純な力学が働きます。

第一次世界大戦 — 貸しを作ったのに、返ってこなかった

  1. 総力戦は本国の人口だけでは支えきれず、植民地から兵員・労働力・食糧・原料が動員された。
  2. 動員に応じた側には、戦後の地位向上や自治への期待が生まれた。
  3. ところが講和で掲げられた民族自決が及んだのは、主として敗れた帝国の版図であった。
  4. 戦勝国が保有する植民地は対象外とされ、旧敵国の領域は委任統治という形式で統治が続いた。
  5. この落差が、運動の性格を陳情から組織的な要求へ変えた。
  6. 戦間期に政党・労働組合・学生団体・新聞という運動の器が各地に整った。
  7. 宗主国側も部分的な譲歩を行い、州レベルの自治や現地人の議員が置かれた。
  8. 皮肉なことに、この譲歩が現地の政治家に統治の経験を蓄積させた

第二次世界大戦 — 今度は宗主国が力尽きた

  1. 再び大規模な動員が行われ、植民地は戦費と兵員の供給源となった。
  2. 大西洋憲章が、住民自身の意思にもとづいて政体を選ぶという原則を掲げた。
  3. ただし宗主国の側には、この原則を占領下のヨーロッパに限るとする解釈もあったとされる。
  4. 戦争は英仏の財政と軍事力を消耗させ、広大な領域を武力で維持する余力を奪った。
  5. 東南アジアでは日本の占領によってヨーロッパ人の行政機構と軍が一度消えた
  6. その空白のあいだに、現地の行政経験者と武装組織が育っていた。
  7. 戦後の二つの超大国は、いずれも旧来の植民地帝国の存続を積極的には支持しなかった。ただし冷戦下では、共産主義の伸長を警戒して宗主国の側を支援した例もある
  8. 国際連合の総会は一国一票であり、独立国が増えるほど数の力が働くようになった。
第一次大戦後 第二次大戦後
自決の適用 敗戦帝国の版図が中心 植民地にも及ぶ
宗主国の余力 まだ維持できた 維持できない
運動の側 組織を作る段階 政権を担える段階
国際環境 委任統治で統治が継続 独立が国際的な規範に
「民族意識が高まったから」で終わらせない独立の原因を問われたら、必ず三つの層で書いてください。①宗主国の側の余力の低下 ②現地の運動が政権を担える水準まで組織化されたこと ③独立を後押しする国際環境民族意識だけでは、なぜ19世紀ではなく20世紀半ばだったのかを説明できません。この「なぜこの時期か」に答えられるかどうかが、論述の分かれ目です。
大西洋憲章を万能の根拠にしない大西洋憲章が出た時点で植民地の独立が約束された、と書くのは不正確です。掲げられた原則の適用範囲そのものが争点であり、実際に植民地へ及ぶまでには戦後の交渉と圧力が必要でした。「原則は先に掲げられ、適用範囲があとから広がった」——第一次大戦後の民族自決とまったく同じ経路をたどっています。
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交渉・分割・武力 — 独立のしかたが三つに分かれた

同じ脱植民地化でも、独立の入り口が違えば出口も違います。ここは型で押さえると一気に整理できます。

おもな例 その後に残りやすいもの
交渉による権限の移譲 ガーナ・マラヤ・フィリピン 旧宗主国との経済関係が継続
宗教や民族で分けたうえでの独立 インドとパキスタン 境界と住民の移動をめぐる紛争
武力抵抗を経た独立 インドネシア・ベトナム・アルジェリア 軍と革命指導者が政治の中心に

インド — 宗教を政治の単位にしてしまった代償

  1. 二つの大戦を通じ、戦争協力と引き換えに自治を求める交渉が繰り返された。
  2. 国民会議派は非暴力・不服従を掲げ、運動を都市の知識人から農村の大衆へ広げた。
  3. 一方で植民地行政は、宗教ごとに選挙区や代表枠を設ける方式を制度に組み込んでいた。
  4. その結果、信仰の違いが政治的な取り分の違いとして固定されていった。
  5. 全インド=ムスリム連盟を率いたジンナーは、ムスリムのための独立国家を要求した。
  6. 戦後のイギリスは統治を続ける余力を失い、撤退を急いだ。
  7. 1947年のインド独立法により、インド連邦とパキスタンが分かれて独立した。
  8. 境界の両側で大規模な人の移動と衝突が起き、分割に反対したガンディーは翌年に暗殺された。
  9. 藩王国の帰属をめぐってカシミールが係争地として残り、のち1971年には東パキスタンがバングラデシュとして分離した。

東南アジア — 宣言ではなく戦争になった理由

  1. 日本の敗戦によって、現地には統治の空白と、訓練を受けた武装組織が同時に生じた。
  2. 独立を宣言した側は、その空白を自分たちで埋めようとした。
  3. しかし旧宗主国は戦前の版図の回復を求めて戻ってきた。
  4. インドネシアではスカルノらが独立を宣言し、オランダとの戦いを経て主権の移譲を実現した。
  5. ベトナムではホー=チ=ミンが独立を宣言し、インドシナ戦争となった。
  6. ディエンビエンフーの戦いでフランスが敗れ、ジュネーヴ休戦協定が結ばれた。
  7. 北緯17度線が暫定的な境界とされたが統一のための選挙は行われず、分断が固定した。
  8. 交渉で独立したフィリピン・ビルマ・セイロンとは、独立後の政治の担い手が大きく異なった。
「どのように独立したか」を一語で言い切る設問が「独立の過程を説明せよ」と来たら、まず型を宣言してください。「交渉による移譲」「宗教にもとづく分離」「武力抵抗の末の承認」——この一語が答案の冒頭にあると、採点者は以後の記述を追いやすくなります。とくにインドとインドネシアを並べる設問は頻出で、「一方は移譲、他方は戦争」という対比がそのまま得点になります。
インドの独立を非暴力だけで説明しない非暴力の運動は決定的でしたが、それだけで独立が実現したわけではありません。戦後のイギリスが統治を続ける財政的・軍事的な余力を失っていたこと、インド内部で自治の担い手が育っていたことが同時に働きました。また比較として、19世紀のラテンアメリカの独立を置くと軸が鮮明になります。あちらは現地生まれの支配層が主導したため社会の構造はほぼ温存され、独立後はイギリスとの経済関係に組み込まれました「政治的独立が経済的従属を終わらせない」という命題は、すでに19世紀に先例があるのです。

1960年のアフリカの年と、引き直さなかった国境

なだれのように独立した1960年

  1. 1957年、ガーナエンクルマの指導のもとで独立し、以後の運動の先例となった。
  2. 1960年には一年で17か国が独立し、この年はアフリカの年と呼ばれる。
  3. 同じ年、国際連合の総会で植民地独立付与宣言が採択された。
  4. フランス領のうちアルジェリアだけは長期の戦争となった。多数の入植者が定住していたためである。
  5. この戦争はフランス本国の政治を揺るがし、第四共和政が倒れてド=ゴールが復帰する一因となった。
  6. 最終的に協定が結ばれ、1962年にアルジェリアの独立が実現した。
  7. ケニアのように、武装した抵抗と交渉の両方を経て独立した例もある。
  8. 南アフリカではアパルトヘイトが国内で維持され、その撤廃と全人種が参加する選挙は冷戦の終結後にずれこんだ。

なぜ植民地時代の境界を使い続けたのか

  1. 独立時の国境は、宗主国が行政上の都合で引いた線をほぼそのまま用いた。
  2. 1963年に結成されたアフリカ統一機構(OAU)は、既存の国境の尊重を原則に掲げた。
  3. 理由は単純である。一つでも引き直しを認めれば、分離の要求が連鎖して収拾がつかなくなると判断されたためである。
  4. 代償として、一つの国に複数の民族が同居し、一つの民族が複数の国に分かれる状態が固定された。
  5. 独立直後のコンゴでは資源の豊かな州の分離をめぐって動乱となり、国際的な介入を招いた。
  6. ナイジェリアでは東部の分離を掲げる勢力との内戦が起き、多数の犠牲を出した。
  7. つまり紛争を防ぐための原則が、別の形の紛争を残した
  8. この機構は2002年にアフリカ連合(AU)へ改組された。

旗は替わったが、値段は替わらない

  1. 植民地期に特化させられた結果、輸出は少数の一次産品に偏っていた(モノカルチャー)。
  2. その価格は国際市場で決まり、変動が大きい。豊作でも値崩れすれば収入は増えない。
  3. 加工・輸送・保険・金融といった利益の大きい工程は旧宗主国側に残った
  4. 工業化のための資金は借り入れに頼らざるをえず、1980年代には累積債務が深刻化した。
  5. 旧宗主国の企業・通貨・軍事協定との結びつきも、独立後に続いた例が多い。
  6. こうして形式的な主権はあるのに、経済の決定権が外にある状態が生じた。
  7. これを新植民地主義と呼ぶ。独立後の指導者自身がこの語を用いたとされる。

非同盟 — 二極の外側に立つという答え

  • 1954年、ネルー周恩来の会談で平和五原則が示された
  • 1955年、インドネシアのバンドンアジア=アフリカ会議が開かれ、平和十原則が採択された
  • 1961年には非同盟諸国首脳会議が開かれ、いずれの軍事同盟にも加わらない立場が国際政治の一極となった
  • 国際連合の総会では、独立国の増加によって数の上での発言力が高まった
  • 1970年代には資源への主権や公正な価格を求める主張が掲げられた(新国際経済秩序の要求)
  • ただし加盟国の利害は一致せず、資源を持つ国と持たない国の格差(南南問題)が表面化した
「非同盟=中立」と書かない非同盟は、どちらの陣営の軍事同盟にも加わらないという選択であって、沈黙や中立ではありません。むしろ植民地主義への反対と、経済的な不平等の是正を積極的に主張したのが特徴です。論述では「政治的独立を達成した国々が、次に経済的な決定権を要求する段階へ進んだ」と位置づけてください。アジア=アフリカ会議から新国際経済秩序の要求までを一本の線で結べると、第三世界に関する設問はほぼ書けます。
「国境が悪かった」で止めない国境の問題を書くとき、「線が不自然だから紛争が起きた」だけでは説明が足りません。重要なのは独立した側が、あえて引き直さない道を選んだという点です。比較として、第一次世界大戦後の東欧を置いてください。あちらは民族の分布に沿って線を引き直したのに、少数民族の問題は解消せず、のちの領土要求の口実にすらなりました引き直しても引き直さなくても問題は残る——ここまで書けると、答案の水準が一段上がります。

入試で狙われるポイント総覧

  • 軸=主権の回復と経済の主導権の回復は別に進む。時間差そのものが主題
  • 二つの大戦の動員が見返りの要求を生み、運動を組織化させた
  • 第一次大戦後の民族自決敗戦帝国の版図が中心で、戦勝国の植民地には及ばず、旧敵国の領域が委任統治とされた
  • 第二次大戦後の後押し=戦時中に掲げられた大西洋憲章の原則宗主国の疲弊国際連合の総会は一国一票
  • インド=1947年のインド独立法ジンナーの全インド=ムスリム連盟カシミール、1971年バングラデシュ
  • 東南アジア=スカルノホー=チ=ミンディエンビエンフーの戦いジュネーヴ休戦協定と北緯17度線
  • アフリカ=1957年ガーナ(エンクルマ)1960年アフリカの年(17か国)アルジェリアの独立
  • OAU既存の国境の尊重を原則とし、のちAUへ改組。代償がコンゴの動乱・ナイジェリアの内戦
  • モノカルチャーと新植民地主義、対抗が平和五原則 → アジア=アフリカ会議(平和十原則) → 非同盟諸国首脳会議
共通テストでの出方「第一次世界大戦後、民族自決はアジア・アフリカの植民地にも適用された」は誤り(敗れた帝国の版図が中心で、戦勝国の植民地には及ばず、委任統治とされたのは旧敵国の領域である)。「アフリカ統一機構は民族分布に合わせた国境の引き直しを進めた」も誤り(既存の国境の尊重が原則)。「アジア=アフリカ会議で平和五原則が採択された」も誤り(採択されたのは平和十原則。五原則はネルーと周恩来の会談で示された)。会議名と原則名の対応指導者と国の対応が最頻出です。
この記事の一問一答(確認テスト)
Q1. 脱植民地化を政治と経済の二つに分けて説明せよ。
A. 主権と行政は独立で回復したが、輸出品の価格や市場、加工・金融の担い手は外に残った
Q2. 第一次世界大戦後、民族自決が適用された範囲を答えよ。
A. 主として敗れた帝国の版図。戦勝国の植民地には及ばず、旧敵国の領域が委任統治とされた
Q3. インドとパキスタンの分離独立の根拠となった法と、ムスリム連盟の指導者を答えよ。
A. 1947年のインド独立法、ジンナー
Q4. インドシナ戦争でフランスが敗れた戦いと、その後に結ばれた協定を答えよ。
A. ディエンビエンフーの戦い、ジュネーヴ休戦協定
Q5. アフリカ統一機構が独立時の国境について採った原則を答えよ。
A. 既存の国境を尊重し、引き直さないという原則
Q6. 1955年にバンドンで開かれた会議と、そこで採択された原則を答えよ。
A. アジア=アフリカ会議、平和十原則

よくある質問

独立したのに、なぜ経済的な従属が残ったのですか?
独立の宣言が動かせるのは主権・軍・行政までで、生産と流通の構造は動かせないからです。輸出が少数の一次産品に偏り、価格は国際市場で決まり、加工や金融は旧宗主国側に残りました。この状態を新植民地主義と呼びます。
インドはなぜ二つに分かれて独立したのですか?
植民地行政が宗教ごとに代表枠を設ける方式をとり、信仰の違いが政治的な取り分の違いとして固定されたことが大きいとされます。全インド=ムスリム連盟のジンナーが別国家を求め、1947年のインド独立法で分離独立となりました。
なぜ植民地時代の国境をそのまま使ったのですか?
一つでも引き直しを認めれば分離の要求が連鎖すると判断されたためです。アフリカ統一機構は既存の国境の尊重を原則としました。ただし民族分布との不一致は残り、コンゴやナイジェリアで紛争を招いています。
非同盟とは、どちらにもつかないという意味ですか?
軍事同盟に加わらないという意味であって、沈黙や中立ではありません。植民地主義への反対と経済的な不平等の是正を積極的に主張し、国際連合の総会では独立国の増加によって発言力を高めました。
この記事について

世界史専門オンライン塾「日本世界史塾」の編集部が、入試での問われ方を基準に作成しています。当塾では次の講師が指導にあたっています。

藤原 進之介日本世界史塾 代表/株式会社数強塾 代表数強塾グループ創業者。東進最年少講師、代々木ゼミナールの日本初となる情報Ⅰ講師を務め、著書は9冊。累計2,500名以上の指導と、40名を超えるプロ講師体制を築いた。
伊藤 敏代々木ゼミナール世界史講師/数強塾グループの映像授業を担当筑波大学・同大学院修士課程修了。ダイヤモンド・オンラインで「カリスマ世界史講師が教える誰も知らない本当の世界史」を連載。「キャラクターがいて、ストーリーがある。それが歴史」を掲げ、通説を多様な視点から捉え直す授業を行う。

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